日記:戸締まり
『すずめの戸締まり』を観てきた! 以下ネタバレ注意です(『君の名は。』と『天気の子』含む)。
先週末の11月11日に公開されてから、本当はすぐに観にいこうと思ったけれど、予定が立て込んでいたので今週になった。ネタバレを踏みたくなかったのでここしばらくはTwitterをあまり見ないようにしていた。映画を観終わったのでTwitterに戻れるかと思いきや、今度はポケモンの新作が発売してしまったため、またしばらくTwitterから距離を置く生活を送ることになりそうだ。雑多な情報が入ってくることがないので生活から雑味が消えるものの、同時に少し味気なかったりもする。
新海誠監督の作品は『秒速5センチメートル』ではじめて触れて衝撃を受けた。初期の作品は観たことがあるのだけれどあまり記憶がない。あとは『言の葉の庭』が好き。
事前情報としては、「各地の廃墟にある扉を閉じていくロードムービー」というくらい。なんとなく『星を追う子ども』に似た雰囲気を感じていた。直近の『君の名は。』や『天気の子』よりもファンタジー色が強いというか、異なる世界の存在がその2作よりも前面に押し出されているような気がした。そこからなんとなく、同様にファンタジー感のある『星を追う子ども』に重ねて見ていたのかもしれない。主人公も女性だし。
あとは軽くTwitterを見ていて(離れられてないじゃん)、「ちょっとびっくりする描写があった」という感想を目にしたので、何のことだろうと思っていた。これは、スクリーンに入る前に掲示されていた注意書きで察することができた。緊急地震速報が流れるシーンがあるのだという(実際の音とは異なり、あそこまで危機感を煽る音程ではない)。上記のような感想があるということは、きっと公開から少し経ってから反応を見て対応が行われたということなのかもしれない。同様の注意書きは公式サイトからも確認できる。
実際、この注意書きがなかったら、「描写の是非についてTwitterで話題になっていそうだなあ」みたいなことを考えてしまって映画に集中できなかったかもしれない。そういう意味では心構えができたのでよかった。映画の後半の重要なシーンで使われるとかであれば、その印象が変わってしまうような気もしたけれど、割と序盤で登場したので、いつ出てくるのかと気を揉むこともなかった。
そう、序盤から緊急地震速報が流れるということは、この映画は「地震による災害」を描いていることになる。直近の2作でも「災害」については触れられており(パンフレットや入場者特典のブックレットにも記載されている)、『君の名は。』では彗星の欠片によって消滅した町が、『天気の子』では雨による気象の変化が描かれている。現代においてそうした描写を考えるときに、2011年の震災を前提としない訳にはいかないと思う。そして今作でストレートに「震災」を扱うことで、きっと多くの人には遠い記憶となりつつある東日本大震災と改めて向き合おうとしているように思われた。
そしてこのテーマを扱うにあたって、今作は前2作以上にシビアな印象を突きつけてくる。『君の名は。』では入れ替わりのタイムリープによって彗星の欠片による被害を回避し、『天気の子』では雨が降り続ける世界へと変貌を遂げた上でも人々は生活を続けている。この2つの災害は、極端なことを言ってしまえばフィクションである。しかし『すずめの戸締まり』で起きている地震という災害は、日本に生きている以上避けることのできない存在で、そしてこの時代の人々は、震災と地続きの未来を生きている。そこに紐づくいくつかの設定はファンタジー色が強いかもしれないが、こと災害の描写においては、今作はどこまでも近い現実として映ることと思う。
地震という存在について、もっと大きな恐怖や悲劇として描くこともできたのかもしれない。でもそれをしなかったのは、現に2011年以降の世界を生きているという現実があって、それをただ写実的に描写したというだけにすぎない、という点もあるのだろうか。実際、自分は大震災で何か被害があったわけでもない。まだ学生だったから、仕事に支障が出たということもなかった。だからもう、記憶は随分と薄れてしまっている。薄れていいと思っているわけでもない。でも、ずっと抱え込んでいることも自分にはできないと思った。『天気の子』の終盤で描かれたような、変化のあとの世界を、きっと誰しも生きている。かつてあったことを忘れてしまったかのように、なんでもないふうに世界は動いている。
主人公であるすずめの行動によって各地で地震が発生するようになり、そしてすずめの行動によって大震災は回避される。でもだからといって、世界から地震が消えたわけではないのだろう。災害に対して主人公の行動が決定的に何かを変えたわけではなく、結果だけを見れば変化を元に戻しただけのマッチポンプでしかない。災害のある世界を私たちはきっと生きていくしかなくて、そしてその姿を等身大に描いている作品だなと思う。
自分が最も印象に残っているのは、すずめの叔母であり、母を亡くしたすずめを引き取り育ててきた環が、すずめを後ろに乗せて自転車を漕ぐシーン。神的な力によって引き出された負の感情をすずめにぶつけてしまう環だが、それを振り切るようにして汗を流してすずめのために自転車を漕ぐ。どうしようもなく過ぎてしまった時間、やりきれない現実があって、それでも前を向いていく強さ。その姿にどこまでも勇気づけられるような気がした(それにしても、『天気の子』では須賀さんに感情移入したし、今回も環さんの姿に心打たれたことといい、主人公ではなくそれを支える大人たちに対して心を動かされるようになったことには、自分の年齢の変化を感じずにはいられないけれど……)。
戸締まりとは、映画の直接的なモチーフとしては「災害をもたらす戸を閉じる」ことにつながるのだと思うけれど、ラストシーンでタイトルとともに戸が締められたとき、「戸締まりは家を出るときにするものだな」とようやく気がついた。家を出て、外に向かっていくためにしなければならないこと。記憶に蓋をして閉じ込めるのではない。いつかまた同じ家に帰ってくるために、人は戸締まりをする。
ところで、映画のコピーやCMにも使われていた「行ってきます」という言葉は、普通は戸締まりをするときには言わないものだ。その言葉はまだ家にいる者に向かって投げかけられ、そして家に人がいるのならその人が鍵を閉めるので、出かける人は戸締まりをする必要はないからである(別に出かける人が施錠したっていいのだけれど)。だから戸締まりとともに投げかけられる「行ってきます」は、ここにはいない誰かに向けられたものだ。ここにはいないけれど、心の中にいる人。生きていると、そういう人がきっと何人もいて、その人たちに「行ってきます」と言うと、少しだけ背すじを伸ばして歩いていけるような気がする。そしていつか、同じ場所に帰ってくるのだ。
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