日記:おわりとはじまり

思ってみれば先月の土日は結構バタバタとしていて、年末年始が久々のゆったりとした休みになったのだけれど、そんなことには思いも至らず、怠惰に時間を消費してしまった。いつも通りといえばいつも通りなのだけれど。

1番良い過ごし方をしたと思えたのは、休みに入ってからとりあえず直近で見た映画の感想を数時間かけてまとめた時間だった。やはりなんでもいいから書くことと向き合った方がいいのかもしれない。

しかしその理屈に則って言うのなら、毎日1時間ほどかけて日記の執筆と向き合っているわけで、そこに充実感をさほど覚えられないのはなぜだろう?もはや馴染み過ぎていて、呼吸のように続けるのが当たり前のものになってしまっているのかもしれない。やめてしまえば苦しいので、なにがなんでも続けるほかない。

日記を書いているときはもうほとんど無心である。なにか目的のようなものがあるわけでもないので、それにまつわる達成感というものも存在しない(目的そのものがないため)。逆に、なんらかの感想を書こうという試みは、なんとかして自分の中に渦巻く心理状態を言語化しようという目的意識が働いているため、それが達成されたときの充実感というものも大きい。

だから日記も目的のようなものを持って書くべきなのかもしれないが、そこにハードルを設けてしまうと、怠惰な自分はすぐさま諦めてしまうかもしれない。そうなってしまうのが怖いから、これ以上を望むこともできない。そうして成長せずに日々が続いていく。でもそれも、いつかは変えたいと思っている。いまは無理かもしれないが……。ずっとこのままかもしれないが……。



初詣に行った。二礼二拍手一礼の動きに倣うことに必死になっていたら、願い事を念じるのを忘れてしまった。どうにか神様から「無欲なやつ」という判定を受けることでなんらかの救済を享受することはできないだろうか(どこが無欲だ)。



『ARIA The BENEDIZIONE』を見にいきました。とてもよかった…………。以下感想です(ネタバレ注意!)。


テレビシリーズ10周年を記念して企画されたプロジェクトの最終章にあたる本作。作中に登場する会社のうち、姫屋がメインとなって扱われている。BENEDIZIONEはイタリア語で祝福という意味らしい。

プリマに昇格し、姫屋の跡継ぎとして支店の経営に忙しい日々を送る藍華。姫屋に代々受け継がれてきたゴンドラの処遇をきっかけに、藍華とその先輩である晃との関係性が回想されていく。

この2人が周囲と自分を比較して抱えていた悩みには相似のものがある。藍華は跡継ぎであるというプレッシャーがあり、晃は同期のアリシアやアテナと比べて秀でたものを持たないという苦悩があった。そして藍華は晃が努力によって水の三大妖精と呼ばれるまでに至った姿に励まされ、晃は幼い頃の藍華の言葉によって自らに足りないものを努力で補うことを決意する。藍華と晃はトレーニーとトレーナーという関係性のみならず、互いに影響しあい支えられているという部分が大きい。

天賦の才とは誰もが与えられるものではない。類まれなる才能がひしめく中で、それでも肩を並べようとするのならば、努力によって楔を穿ち続けながら前に進むしかない。そうして非凡な存在へとたどり着くことは決して並大抵のものではなく、しかしその姿は多くの人を勇気づける祝福にほかならない。藍華や晃が周囲のプレッシャーを跳ねのけて活躍する姿にこそ、その祝福を感じずにはいられない。

クイーンから晃へ、晃から藍華へ、そして藍華からあずさへ。バトンは連綿と受け継がれていく。例えゴンドラがなくなったとしても、そこに乗せられてきた思いは人と人を通して残り続ける。きっとこれからも。終わりとは恐れるようなことではない。それは、新しい伝統を打ち立てていくための号砲だからだ。

ARIA、本当に好きな作品です…………。

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