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かみさま、ほとけさま、それから。。。カオス

私が小学生だったとき、なぜだか知らないけど、ルーテル教会の日曜学校に行くことになった。家は浄土宗で、毎月お坊さんが来て仏壇にお経を上げていた。私は時々母の後ろに座って、その長いお経を聞き、お坊さんがいろいろなものを叩くのを見ていた。母はお茶を出して、お菓子とお布施を包んで少し話をした。

ぼんやりした子どもだったので(今とおんなじか)、誘導されると素直に従った。(そこは今とちがうなあ)「宗旨が違う」とか、「仏様と神様とどっちも拝んでどうするの?」とか、小難しいことはわからなかった。

それで、なんとなく毎週日曜になると、近くのアメリカ人の牧師さん一家が住む家の、駐車場の上の小屋のような集会所で、集まってきた子どもたちと幻灯機でスライドを見たり、歌を歌ったりした。その家の裏庭は芝生で、コリー犬がいてそこの子供と走り回ったりした。誰かがトイレを借りたら、「座るトイレ」(水洗トイレ)だったそうだ。

娯楽のない当時の子どもにとってそれは、聖書のスライドを見て、賛美歌を歌って、そこに来ているボランティアの大学生と遊んで帰るという、暇つぶしのようなものだった。

ある時、広い公園に行って「ゆで卵を隠してあるから探してごらん」というゲームをしたことがある。今思えば「イースター」だったのだろう。また年末には、ちょっと離れた教会に夜連れられて行き、そこで劇を見たり、賛美歌を歌ったりした。あれがクリスマスだった。

牧師さんは二回代わった。そして期限が来るとアメリカに帰っていった。その後私が進学した短大はたまたまカソリックだった。学内に聖母会があり、シスターや候補生が生活していた。クラスには一人か二人、シスターの学生がいて、体操の時もあのままでバレーボールをした。絵の時間は「イコン」を描いていた。日用雑貨も、みんな黒く塗って使っていた。鏡は見てはいけないらしかった。いろいろミステリアスな人たちだった。

結婚して子どもが幼稚園に行くようになったとき、夫の転勤で6月に転居した土地では、入れる幼稚園がなかなか見つからなかった。やっと見つけて入れてもらったのは、プロテスタントの教会付属幼稚園だった。そこの園長は保護者に大変尊敬されていて、母親クループの活動も盛んだった。子どもが慣れるまで心配していた私を、他の母親がすぐバドミントンの会に誘ってくれた。

私はそういうわけで、旧約聖書も新約聖書も一応読んだ。しかし自分の実家の浄土宗についてよく知らないので、ある時開祖の法然について調べることにした。私の両親はお寺のすすめに従って、生前得度をして戒名をを授かっていた。

私はそれから永平寺を開山した道元についても知りたいと思った。永平寺で修行したお坊さんに、「正法眼蔵随聞記」の学習会をしてもらい、少し教えてもらった。ある時思うところがあって、それらのおおもとのブッダその人について、そもそもを知りたいと思い、その形を現在まで保っているというスリランカ仏教を学ぶことにした。

本を読んだり、一度は機会があって、アルボムッレ・スマナサーラ師の講座を聞きに行ったりした。それはとても論理的で、科学的な教義だとみなされたようだ。今は「マインドフルネス」という形で、ブッダの想いとは正反対の、成功する起業家の自己啓発になっているらしい。

いろいろな宗教のあり方を学ぶにつれて、ものの考え方、哲学的なものの見方に興味が移った。「なぜそれはそうなのか」「なぜ、そのように考えるのか」「そもそもそれは何なのか」。

カオス的世界の、星や生命の誕生や終息を想像しながら、人の一生の一瞬のような今を、どのように考えて暮らしていけばいいのか。「コロナ禍」での日常生活のミクロな衣食住の中に、マクロ的な宇宙の中での命を、重ね合わせながら今もまだ、無駄に考え続けている。





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