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書くための熟成と調理

最近、インプットとアウトプットのバランスに苦心している。

料理を作るためには食材が要るように、何かを書くためには、それなりのストックが必要だ。
それを「引き出しをたくさん持っておく」と言う人もいるし、倉庫に貯蔵するイメージや、巨大な箱にごちゃまぜにして放り込むような感覚をもっている人もいるかもしれない。

ようは「溜め込んで寝かせておく」ということ。

溜め込むものは何でもよくて、ちょっとしたフレーズとか、ふと思いついた比喩表現、書きたいキーワード、具体的に何に使えるかも分からない些細な体験や、一見役に立ちそうにない雑学でも、なんでもかんでも、とにかく引き出しなり押し入れなりにぽいぽいと放り込んでおく。
そうすると、何かを創作しようと思ったときに、思わぬところから、不思議とふさわしい材料が引っ張り出せたりするものだ。
ときには、たまたま隣に並べてあったものとくっついて思わぬものが出来ていたり、奥深くにしまい込んでいた材料がうまいこと熟成して、甘美な味わいになっていたりするかもしれない。

そういうストックがあるからこそ、創作ができる。

そうはいっても、じゃあ材料が豊富にありさえすればおいしい料理が作れるかというと、そういうわけでもない。
ある程度のクオリティのものを完成させるには、必ず技術が要る。
ストックがいくらあっても、包丁さばきや、最適な煮込み時間や焼き加減を熟知しておかないと、材料を並べただけでは調理はできない。
そして料理人は調理の技術をどうやって身につけるかというと、それは実践しかないのだ。

これが表現においては、いわゆるアウトプットに置き換えられる。
いくら書くネタや着想があったとしても、それをどういう言葉を使って文字にするか、どういう構成で書くか、どういう言い回しをすれば分かりやすく伝わるか…そういう技術は、日々書き続けないと絶対に上達しない。
あるいは、ぼんやりと頭の中にあるものに言葉を与え、文章をかたちづくり、実際に言語化・可視化してみることによって、自分が表現したいものを客観的に分析できたり、整理ができたりする効果もあるかもしれない。
ちょうど、作ってみた料理を味見してみるようなものだ。

だから、SNSでもメモ帳でもいいから、日頃から小さな表現を積み重ねる行為は、書くための大事な訓練になる。
本当に書きたいものを書くために、日々小さなアウトプットを繰り返し、研究し分析する。
これも、表現するために欠かせないことだ。

溜め込んで、材料を充実させて、ときには熟成させる。
こまめに言語化することで腕を磨き、自分の表現の質をたしかめる。

この相反する二つのバランスをとるのが、なかなかにむずかしい。

例えば、ふと思うことがあり、それをブログやnote、もっと簡単にはtwitterに、まだ温かいうちに書くとする。
そのこと自体は良いのだが、書いてしまったことによって、その感情や考え方・感じ方を、文学表現にはもう昇華できなくなってしまうことがある。
結論を出してしまった、という感覚に近いだろうか。
もちろん個人差はあるし、単なる力量不足も大いにあるのだけれど、書きたかったその「何か」は、もう完成し終わってしまって、使いまわしてみても、完成品以上の深みを出しにくくなってしまう…そんなことが時々起こるのだ。

言語化されない未処理の状態のまま温めておけば、もっと重厚で深みのある味を表現できたかもしれないのに、手軽な言葉で一度調理してしまったがゆえに、もうその皿に収まってしまって、再調理するには、未処理の材料を調理するよりもっとずっと難しくなる。

だからといって、溜め込むばかりで何も書かず、いざ書くときにあっと驚く鮮やかな表現が降りてくるのを期待したって、単に筆力を鈍らせる結果にしかならない。

熟成すれば良い材料になってくれるかもしれないものと、今すぐ調理してしまっても差し支えないもの。
これらをより分ける嗅覚もひっくるめて、「書く技術」なのかもしれない。

最後まで読んでくださってありがとうございます。 わずかでも、誰かの心の底に届くものが書けたらいいなあと願いつつ、プロを目指して日々精進中の作家の卵です。 もしも価値のある読み物だと感じたら、大変励みになりますので、ご支援の程よろしくお願い致します。