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私の短歌は何者なのか

私の短歌について振り返る機会をいただきました。自分自身が意識していなかった歌の背景や考え方に気付かされ、大きな示唆を得ることができました。

私の短歌は何者なのか、短歌を始めておよそ半年となった現在でも、よく分かっていません。
せっかくの機会ですので、分からないなりに考えていこうと思います。それがきっと、私の血肉になるはずです。




主体は誰なのか

主体=私、でないことははっきりしています。
それはおそらく、「まんが百人一首事典」で知った素性法師のように、歌とは誰かになりきって詠んでいいんだ、という意識が初めから刷り込まれていたからだと思います。
最近でこそ自分の感情から生まれた短歌も詠んではいますが、それでも短歌として練り上げていく過程で最後まで主体と一致するものは稀で、大抵は私ではない誰かが主体となっていきます。

主体≠私の是非についてはここで論じるつもりはありません。問題は、その主体が誰なのか、はっきりしていないことだと分かりました。

短歌で切り取った前後には、絵本のように物語がある、という話をうかがいました。
そういえば、自分はそういう短歌のつくり方をしていなかった。
世界観やキャラクターのバックグラウンドを緻密に設定するのは私の原点だったはずなのに、その感覚をすっかり忘れていました。

なりきるにしても、その属性なり前後関係をしっかり設定してあげれば、もっと短歌に奥行きがでるのではないか。そう気付くことができました。
私は連作が得意ではありません。それを打開する鍵も、ここにある気がしています。


私の短歌のつくり方

私の短歌は、短い散文をモチーフに57577の定型に落とし込み、言葉を入れ替え、語順を整え、ビーズの粒を交換するように助詞や助動詞を嵌め込んでつくっています。
パズルのような、と認識していましたが、あるいはクラフト的なのかもしれません。

この一連の工程のなかで、当初のモチーフから乖離することもしばしばですし、私はそれを厭いません。短歌として良いものになるなら、自分の感情など如何ようにも調整します。

なので、私は自分の短歌を「つくる」と表現することが多いです。自身の意識・無意識に向き合って、歌い上げるということをしてこなかったから。
そんななかで、最近試みているのが、感情に率直な短歌を詠むことです。
そこで、次の問題に直面します。


直球すぎる問題

歌がストレートすぎるのです。
素直と言っていただけるのは大変ありがたいのですが、作意を話すときにそのまますぎて芸がない。説明することがなさすぎて、ためらいさえ覚えます。
そもそも、事実や感情をただ定型にはめただけで創作と呼べるのか、せめて、何か一歩は踏み出さなければならないのではないかと感じています。

では、事実をいったん反芻して抽象化すれば良いのでしょうか。そのアプローチを身につけてはいませんが、なんとなく、読者を置き去りにする歌をつくってしまいそうな危惧があります。

一方で、私にとってはシンプルすぎる歌を丁寧に読み解き、おぼろげだったイメージを明快に導いてくださる方もおられます。これは実に新鮮な驚きで、このことだけで短歌を始めて良かったと深く感じます。
ただ、受け手の読解力に依存する短歌ではいけないことは重々承知していますし、そのために何らかの対応策が必要なことも理解しています。

この問題は、まだ答えを見出だせていません。いろんな作風を試してみて、探っていきたいと考えています。

もしかすると将来、いまの直球すぎる短歌をなかったことにしたくなるかもしれません。でも、それはあまりに寂しすぎるので、やわらかく受け止めてあげてほしいと、いつかの自分に伝えられたらと思います。


私が求めるもの

ここ数か月、ずっと短歌のことを考えていました。
この先、自分が短歌で何をなしたいのかも思い浮かべたりしました。
賞には応募していきたいと思っていますが、有名になったり、偉くなることには興味はありません。それは他に適任な人がいるはずです。

では、何を求めているかというと、きっと、褒めてもらいたいのだと思います。
仕事をしていても、自分が手掛けたものを認めてもらえるのが一番のやり甲斐です。そういうときには、やって良かったと胸に沁みます。
短歌についても、感想をいただくのはすごくうれしいし、そしてその言葉が本当に素敵なので、私もお返しができるよう研鑽していきます。

褒めてほしい、というのが随分プリミティブなのであれば、感性を同じくする人と共感したい、と言い換えてもかまいません。
短歌によってそういう方と出会えたことに心から感謝していますし、だからこそ私は歌を詠むのだと思います。

ひとりが好きで、群れるのは不得手で、それでいて知り合いをつくりたがる性格の根底には、認めてもらうことへの執着や羨望があるのだと思い至りました。
このことを、短歌に向き合うなかで、自分自身を深めていくなかで、初めて認識しました。
誰にもしたことがない話です。そのうち削除するかもしれません。


最後に

私はずっと、文章や文字の世界で生きてきて、音声言語では自分の思考の10分の1も表現できないと考えていました。
ですが、作意や背景を口にしてみて、言葉として発してみて、初めて気付く思いもあると知りました。

文字と比べて、私は自分の話し言葉を操ることができません。
今後も私の主戦場は文字の世界だろうと考えています。
ただこれからは、話す、ということも鍛錬していきたい。そう思えたことは、私にとって大きな一歩です。

なお、その文字の世界においても、私は、短歌の国でひと仕事すると散文の国に移り住みたくなり、そちらにしばらく滞在すると短歌の国への帰り方が分からなくなることがあります。
この1か月の間にも、やはり自分は散文の住民なのではと感じることが複数ありました。
それでも、関わってくださる皆さまのおかげで、短歌に戻ってくることができています。


こうして振り返ると、私と短歌を取り巻く環境はとてもありがたいものだと気付かされます。いただいた機会と立場を大切に、守り育てられるよう努力は惜しまないつもりです。
そして、いただくだけでなく、何か報うことができる私でありたい。

私の短歌は何者なのか、冒頭で立てた問いに、いまは答えを出すことができません。歌をつくりながら詠みながら、模索していくしかないのでしょう。
そう遠くないいつの日にか「私の短歌は何者なのか(Reprise)」を書くことができるよう、さまざまな角度から試行錯誤を続けていきます。

2024年12月、短歌を始めて半年の私は、そんなことを考えています。


「散るということ」

朝も夕もおんなじ道を通るのになんで銀杏が綺麗なんだろう

この秋を次の秋へとつなぐため銀杏の葉はまた散るのでしょうか

2024.12.7 短歌の文化祭大賞応募作



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