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「トラウマ」を作る

②について~自分の整理について

私にとっての「自分の整理」についてするにあたり生い立ちについて思うことを書き出してみたいと思う。
昭和二桁の時代に長女として新宿で夏に生まれた。母親にとって初めて抱く我が子である。ちなみに父親にとっては第二子である。
母親は「子どもが欲しくて結婚した」とよく言っていた。つまり子どもが出来ない男の人は結婚の対象外である。そのことを言う母親の発言を受け取る子としては「私を生んだのは、母親のとって結婚する手立てであった」、つまりは「母親のエゴで生まれた子」と思っており、母親と違和感を作っていた。そんな母親だから結婚が「全て」であるから自分の思い描いたストーリー=こうあるべきという思考で作られたパッケージプランを思い描いていたはずだ。だから子どもが出来る男の人=連れ子がいるのが安心安全の証明になりあの父親と結婚した。「それだけじゃないのよ」なんて仰っていますが、子からしたら「この人は結婚が子どもであって相手じゃないんだな。あなたにとっての子どもは手段であり(持つべきもの。持ったら幸せになれると信じているもの)愛ではないんだろうな。愛ってなんなんだ?」と幼心に思って母親を見てました。(←ひねくれ系)
ようやく念願の我が子が誕生。だがしかしであるのが色々な経験ができるのが物質世界の3次元世界。母親にとってのトラブル発生したのである。母親が思い描いていない子が生まれたのである。思い描いていたパッケージプラン外が起きた母親はわが子を抱いて電車に飛び込もうと思ったとのこと。でも飛び込めなかったと小学生の時に聞かされた。この時から私は「存在してはいけない子」、「両親を選んでごめんなさい」という感情を持つことになった。トラウマを背負うことを「選択」したのである。でも、トラウマを背負うことをなるべくしないように私という小さな身体の薄いフィルターは、なるべく網の目を大きくして通すようにした。都度は受け取らないのである。だから母親にとって「何を考えるいるのかわからない子」、「大人しい子」になるのである。ここで私の感情、私の存在を出したら母親の感情をすべて受け取らなくていけなくなるのである。それは出来ない。
一方、母親は自分の描いた「こうあるべき」とううパッケージを守るために、作り上げるために「怒り」という「強さ」を手にした。とにかく感情を相手にぶちまかせる。これが「強さ」と勘違いしている感情だから向かってきたら、狙われたら逃げれない。幼心には、「ない(存在しない)」になって逃げたいが知らず知らずに受け取っていたのだ。これがある意味の「洗脳」だと思う。こらからというもの母親が思い描く人生の選択をしてきた。お友達、遊び、着る洋服、習い事、趣味、食べ物、人生観、進路、就職、価値観、好きな教科、好きな先生、音楽、映画。。。。
おかしいなと思いながらも、そうしなくては生きてはいけなかったのである。「トラウマ」を作って背負ったのである。

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