わたしは余計なお世話をし続けるだろう

わたしの仕事の主軸はもちろん、日曜日の礼拝である。そして聖書の教えを、かくだん目新しくもない、これまで語り伝えられてきたであろう教えにのっとって信徒や来会者に語ること、ここからわたしの仕事は始まる。しかし、それは目新しくも何ともないとはいっても、目の前の人たちに向けて語る、具体的な言葉である。「おはよう」という言葉は手垢がつくどころではないほどに使い古されたあいさつだが、それにもかかわらず、日々新しい唯一の「おはよう」が生まれている。聖書の言葉も「おはよう」に似ている。目の前の人たちに触発されて、語る言葉がわたしに与えられる。だが先にわたしの内に語りたい言葉があって、それを目の前の人たちに伝えたいとも思っている。鶏と卵、どちらが先かというような話である。

緊急時代宣言で休会していた、集まっての礼拝を再開することで、Youtubeでの聖書の話は、礼拝でのそれとは別の意味を持つようになった。休会中は礼拝に集まることのできない信徒を意識しての、いわば代替的な語りであった。しかし今は、そもそも会ったことのない人に対して福音を伝えるためにYoutubeで話している。それであらためて、わたしは分かったのだ。ふだんの集まっての礼拝では、どれほど目の前の人々に引っ張られ、巻き込まれて話をしているのかということを。

ところで「目の前の人々」というとき、それは礼拝堂に集まっている人たちだけを指すのではない。わたしは聖書の話をしているとき、そこに不在ではあるが、しかし共にいる人たちが見えている。ホームページやツイッターなどをとおして、わたしに問い合わせをしてくる人々のことである。先週はことさら問い合わせが多かった。同時進行で何人かの人と、それぞれの個人的な思いを共有し、ある人に対しては具体的な道を模索し、別の人とはただ悲嘆を分かちあった。わたしとしては珍しく多忙な日々を過ごしながら、わたしはイエスがどのように人と出遭っていたのか、考えずにはおれなかった。

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