他人に寄り添うとは何か

学生の頃シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』を読んで、自分もこんな信仰を持ちたいと熱望した。わたしが読んだ文庫本の解説によれば、ヴェイユは農場で重労働をして、結核になって亡くなったという。詳細は忘れたが、わたしはこれを殉教、自己犠牲と見なした。人々にとことん共感して、人々のまっただなかで前のめりに、泥臭くのたうちまわって生き、死ぬ。このような生き方をしたいと思った。それが信仰だとさえ思い詰めていた。

しかしいざ伝道者になって、教会でいわゆる「困っている人」を手助けしようとしても、まったくうまくいかないどころか、むしろ中途半端な関わりによって事態を悪化させてしまうことが多くなった。統合失調症や双極性障害に対する知識もないのに、わたしは相手の(じつは症状の表れである)言葉だけに共感したり、怒りを覚えたりと振り回されて、けっきょく相手との関係を切ってしまうこともあった。

「~なのでお金をください」という人に対しても────このようなケースに対して、わたしは未だに正解を見いだせてはいないのだが────言われるがままにけっこうな金額を供出しては、徒労感に襲われることも多かった。なぜ徒労感に襲われるかといえば、その人がその後どうなったのか、わたしにはまったく分からないからである。その人はわたしを騙したのではないか?いや、騙されたのでもいいではないか!という具合に、想いは一つ所へと落ち着いてはくれないのである。すべては神のみぞ知ると信仰において理解はしていても、結果が見えない支援とはしんどいものだ。

実際に誰かに寄り添うときには、私的な感情としては冷たいくらいのものを持っていなければならないということ。そのことに最近になって思い至った。とはいうものの、仕事の立場のみで共感するというのは、いざやろうとすると実際には難しい。プライベートな思いと仕事上の共感とを完全に分けること。それががすんなりできる人もいるかもしれないが、そうではない人もいる。ちなみに、わたしはそれが苦手なほうである。公私を混同する過ちを、今まで何度も犯してきた。

時折、牧師によるセクシャルハラスメント事件を耳にする。なかには最初から性的な目的をもって接近した愚劣極まる牧師もいる。だが、仕事上の共感とプライベートなそれとの峻別の困難において、私的な感情に呑み込まれて相手に恋愛感情を抱いてしまった、そういう牧師も一定数いると思われる。もちろん、だからといってわたしはセクシャルハラスメントを擁護するつもりはない。ただ、「共感する」ということの危うさは、そんなに単純なものではないと言いたいのである。

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