聖書のストーカー
中年男性の性について語ってきたが、性に悶え、悩み苦しむのは彼らだけではない。若い男性もそうである。彼らはニュースで報じられるような、地位ある立場からセクハラをすることはできない。だが、惚れ込んだ女性のことで思いつめるあまり、その女性につきまとい、暴力を振るってしまうことはある。ストーカー事件である。
ストーカーという言葉こそなかったが、はるかな昔から人類は、というよりも男性は、おのれの性欲に苦しみ、しばしば道を踏み外してきたようだ。じつは聖書にもストーカーはいる。じつに、紀元前10世紀ころのストーカーの記録である。
ダビデは王なので、妻が何人もいる。アブシャロムとアムノンは異母兄弟。アブシャロムとタマルは同じ母親から生まれたようだ。だがアムノンはそうではない。アムノンは「病気になるほど」異母妹タマルを求めてしまう。病気ということで、聖書はどんな病気を表しているのだろう。アムノンの友人ヨナダブが心配して声をかける。
朝から晩までタマルの容姿が頭にこびりついて離れず、何も手につかず、夜も眠れない。アムノンはタマルを想像しては食事もしないで、ひたすら自慰行為に耽っていたのだろうか。彼はヨナダブに、タマルへの激しい欲望を打ち明ける。そこでヨナダブは彼に、ある禁じ手を教えてしまう。
このあたり、質の悪い不良たちが、女性をどうやってレイプするか、計画するような暗さがある。アムノンは計画どおり仮病を使い、タマルにパン菓子を持ってこさせる。彼は従者らを周到に退室させ、彼女と二人きりになる。そのあと、彼女には悲惨な暴力が待ち受けているのだ。聖書はそのことを包み隠さず告発する。
彼は彼女を襲い、射精する。欲望は満たされぬがゆえに欲望であり続ける。満たされるや否や、それは急速に神秘性を失い、冷めてゆく。アムノンはタマルの肉体を欲し、膣に射精したかったのであって、彼女に対して何の責任を感じてもいない。
「ああ、やっちまった。めんどうくさいことになったな」
それがアムノンの、射精後の正直な心境であっただろう。なぜなら、そのあたりのことも聖書では精確に描いているからだ。
古代イスラエルの王宮において、王子であるアムノンはタマルの処女を奪った以上、責任を取って結婚しなければならなかった。暴力を受けたタマルが、それでも退室を拒んだのもそのためだ。だが彼女の美しい身体を征服、凌辱するという欲望を果たした今、そのあとの結婚や彼女との人格的な交わり、長い人生を共にしてゆくことなど、アムノンにはなんの興味もない。ああだこうだ言ってくるタマルが鬱陶しい。用は済んだから、さっさと視界から消えてくれ。
ストーカーは、欲望を満たしたいからストーカーとなる。冷静に考えれば、ストーキングしている時点で相手から嫌悪されることは明白なのだが、欲望が思考を覆ってしまう。アムノンもまた、タマルに射精したいという欲望に取り憑かれたとき、射精したあと彼女とどう生きていきたいのか、彼女からの信頼をどうやって得るのか、そういうことには考えがまったく及ばなくなったのだ。それが聖書の語る「病気」なのである。
このあとアムノンはアブシャロムに復讐され、殺害される。この復讐がきっかけでアブシャロムは父ダビデと疎遠になり、やがて謀反を起こし、彼もまた斃れ行く運命をたどる。思えば父ダビデの過ちは、他人の妻を奪うため、その夫を激戦地に送り込んで故意に戦死させたことであった(サムエル記下11章)。父の尽きせぬ性欲はめぐりめぐって、息子たちの惨劇となった。
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生きること、死ぬこと、そのむこう
牧師として、人の生死や生きづらさの問題について、できるだけ無宗教の人とも分かちあえるようなエッセーを書いています。一度ご購入頂きますと、過…
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