歳月不待人(歳月は人を待たず)
「歳月は人を待たず」有名な言葉ですよね。
今年はコロナ禍に振り回され、気がついたら一年が過ぎていたと感じている人も多いのではと。予定していたことが出来ず、気づいたら年末、そんな思いに、歳月は人を待たずという言葉が心に刺ささります。
・「歳月は人を待たず」とは?
ところで「歳月は人を待たず」とはよく聞きますが、ならどうすれば良いと言っているのでしょう。SoWhat?です。
実はこの言葉を述べたのは4世紀後半から5世紀の中国の文人、陶淵明の漢詩に一節、気ままに作った無題の詩「雑詩」十二首の中にあります。雑詩の制作は陶淵明50才の頃、残る人生への想いを語っています。それでは陶淵明はこの詩で何と言っているのでしょう。この詩は五音古詩、12行の長い詩です。歳月不待人はその最後の言葉です。最後の部分は次の様な内容です。
盛年不重来 盛年重ねて来たらず
一日難再晨 一日再び晨なり難し
及時当勉励 時に及んではまさに勉励すべし
歳月不待人 歳月は人を待たず
現代語で表現するとこんな感じです。
若い時は再び来ない
一日に朝は二度来ない
時を惜しんで勉励すべき
歳月は人を待たないのだから
(ちなみに「晨」とは朝のことです)
ここだけを見ると若いうちにしっかり勉強すべきと説いているように見えます。
しかし陶淵明はそんなことを言いそうにない人物です。貧しい実家を支えるため仕官して県令にまでなりますが、役人人生が自分の求めている姿ではないと職を辞して田舎に帰って隠遁生活します。その想いを込めた詩「帰去来辞(いざ帰りなん)」は中国六朝第一の名文と称されています。酒が大好きで田舎に還って酒を飲みつつ思いを綴ったと言われる「飲酒二十首」も有名です。新たに建国した宋の朝廷からの招聘も断り自由な隠遁生活を送った陶淵明が「歳月人を待たず」で勉強しろといいそうにありません。
さて、「歳月は人を待たず」ですが、陶淵明の最初から読むと勉励がすべきの意味が全く異なって見えてきます。少し長いですが、全文を見てみましょう。
・冒頭「人生は思い通りにならず、自分を失ってしまう」といっている
まず、冒頭の四行から見ていきましょう。冒頭は人生の儚さを詠っています。
人生無根蔕 人生に根も蔕も無し
飄如陌上塵 飄として陌上の塵の如し
分散逐風転 分散して風を逐って転ず
此已非常身 これすでに常の身に非ず
現代語だとこんな感じでしょう
人の命は木の根や果実のヘタの様なしっかりとした拠り所など無い
まるであてどなく舞い上がる路上の埃のようなものだ
風であちらこちらへ吹き飛ばされ
この身はもはや元の姿を保っていない
このように陶淵明は人生は思い通りになるものでなく儚いものだと、詩の冒頭で説いています。まるでコロナで右往左往している現代社会の風景と重なります。
・次段「まわりの人と酒を飲んで楽しく過ごせ」といっている
つぎの四行で、そんな世なのだから酒を飲んで楽しめと詠っています。
落地為兄弟 地に落ちて兄弟と為る
何必骨肉親 何ぞ必ずしも骨肉の親のみならんや
得歓当作楽 歓を得てはまさに楽しみをなすべし
斗酒聚比隣 斗酒比隣を聚む
現代語だとこんな感じ
こんな世に生まれたのなら、人は皆、兄弟のようなものだ
肉親だけに限る必要はさらさら無い
うれしい時には、心ゆくまで楽しみ
酒をたっぷり用意して近所の仲間と一緒に飲むが良い
どこにも勉強の話は全く無いです。まわりの人と酒を飲んで楽しく過ごせと言っています。やっぱり酒好きの陶淵明、面目躍如の内容です。
・陶淵明の「歳月不待人」とは
詩を最初から読むと、勉励とは勉強に励めと言っているのではなく、できるだけ楽しむ事を励めと言っていることが分かります。最後のパートの勉励のところを改めて現代語に書き換えるとこんな感じでしょう。
若い時は二度とやってこない
一日に二度目の朝は無い
楽しめる時にせいぜい楽しもう
時というのは待ってくれないのだから
つまり・・・
陶淵明が「歳月不待人」の言葉に込めた人生への想いは、
世間に振り回されては自分を失ってしまう
そんなものに流されず
今この時に、まわりの人と楽しもう
そうしないと自分を失ってしまう
歳月は人を待たないのだから
今のこんな時だからこそ、ワクワクすることをまわりの人と共有して心ときめくことを楽しむように過ごしたいものです。
陶淵明、大好きです(笑)