安楽死を考える「命はだれのものか」
著者の「くらんけ」さんは6歳で難病にかかります。
良くなる見込みが薄く、さらに医者に対する不信感も募っていきます。
そんな中で見つけた希望が「安楽死」。
いろいろと思うことが多く、文章にまとめるのが難しかったのですが、心に残った部分だけでも紹介したいと思いました。
「安楽死」とは何ぞや?
日本ではひとくくりに「安楽死」と呼ばれるものは、実は2つあります。
① 安楽死:致死量の薬を医師から投与される
②自殺介助:致死量の薬を自分で体内に入れる
現在の安楽死は②のケースが多いようです。
以前NHKでとある方の様子を観た方もいらっしゃるのではないしょうか。
①を認めている国が少ないのは、仕方ないですよね。
人を死に追いやりたい医師なんていませんから。
日本人はとにかく「命を大切にしろ」「死ぬ勇気があるなら生きるべき」と言います。
体を思うように動かせず、誰かの世話になりながらただ生きている状態を強要される…私の想像が及ばないくらいの苦しみです。
しかし家族が「生きていてほしい」と願う気持ちは否定できません。
くらんけさんは家族を思いやる気持ちがある優しい方です。
「安楽死(自殺介助)」という選択に至るまで、どれだけ考え抜いたのでしょうか。
命はだれのものか
本書の冒頭でくらんけさんが直前で死ぬのをやめた話が書かれています。
後の章でくらんけさんは「自分の命は自分だけのものではない」とおっしゃっています。
自分が死ぬのはいい、でも家族を不幸にしてまで死ぬのは自分のわがままではないか…。
今まで家族の助けを借りながら生きてきたくらんけさんの、家族に対する深い愛情を見た気がしました。
今回は死を選びませんでしたが、悪化する病状、介護する両親の老い…心配の種は尽きません。
くらんけさんは「安楽死」するにあたって家族の助けも借りながら、何とか厳しい要件をこなしていました。
でもそれすらできなくなったら?
ただ生かされているだけの人の思い(尊厳)は?
どれだけ考えても正解のない問いが残ります。
本当にどうしようもないときに「安楽死」が選択できる社会を、私は望みます。
「一命をとりとめました」のその後
くらんけさんのお知り合いの女性の話で、強烈に印象に残ったものがあります。
事故に遭ったその女性は、救命士の治療によって一命をとりとめました。
しかし首から下がまったく動かなくなりました、
彼女は事故から20年経った今でもその救命士を恨んでいるそうです。
「見殺しにしてほしかった」と。
…救命士さんにもちろん罪はありません。
一命をとりとめた、そう聞いて私を含め大部分の人は「良かった」と安堵すると思います。
でもこんな現実もある…
必死の治療が本当にその人のためになるのか
そして治療された側は残酷なまま生きなければならないのか
あまりにも「生かすことだけ」を重視していて、それが重荷になっている人がいることを想像しないといけない気がします。
父母のお話
実はくらんけさんのお父様、お母様のお話が最後に載っています。
どんな気持ちで娘であるくらんけさんに寄り添ってきたか、そしてどんな形でもいいから生きていてほしいと強く願ってきたか…。
この父母の話を読んだあとに、もう一度くらんけさんの話を読むと、少し違った見方ができます。
感想・これは必読の書
もうこれ、教科書として日本人必読の書とすべきですね。
日本人は死について語ることを、あまりにも遠ざけていると思うのです。
死について考えることは、生き方や尊厳について考えることでもあります。
今は健康でも、人間いつどうなるかわかりません。
死を穢れとして遠ざけるよりも、安楽死(自殺介助)についての議論が必要です。
この話を自分事として私はとらえたいと思いました。
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