諏訪部佐代子VIVA滞在日記⑤暗闇キャッチボール
本展のゲストアーティストである瀬古くんと取手駅近くの土手でキャッチボールをした。夜10時ごろ。夜の取手駅付近の利根川の土手は真っ暗で非常に視認性が低い。
キャッチボールと会話はよく類似性を持って語られるが、暗闇でキャッチボールをするとボールはほとんどと言っていいほど見えなかった。リリースのタイミングは全く見えず、自分の手前でバウンドしたボールがようやく見える程度。止めるのが精一杯だった。相手の姿形もシルエットしか認識できず、ただボールが飛んでくる。それを受け止める。たまにキャッチできる。
zoomやgoogle classroomなどオンラインでのコミュニケーションは、いつもどこかにギャップやラグを含んでいる気がする。私の家のWiFiは非常に脆弱な上パソコンも音を全くクリアに出力してくれないので、どこか会話がボヤけてしまうことがある。画面の向こうの人が一所懸命喋ってくれる言葉にいつも申し訳なさを感じていた。それと同時に私の放ったボールはどこに受け取られるのだろうかという所在なさも。
心に余裕があるときはそのギャップごと楽しめるものだが、緊張しているときはなかなかそうはいかない。同様に英語でのコミュニケーションでもたまに自らの自信のなさからなかなかうまいこといかないなと思い込んでしまうことがある。
どんないい球を投げる人も、受け取られなければキャッチボールは成立しない。瀬古くんはキャッチしやすいボールを投げてくれた。それは毎日のトークでもそうだと思う。彼の問いかけはいつも多彩で変化に富んでいるが、必ず受け取れる。
そんな瀬古くんと今回挑戦したのがアイマスクを着用してのトーク。ずっとアイマスクを着用してフリーテーマでトークをするもの。瀬古くんの発案である。
自己と他、その境界線が曖昧になった1時間となった(元々30分の予定が時間がわからないため1時間になってしまった)。わたしがいかに目で見ている情報から言葉を生み出しているかもわかった時間だった。誰に届いているかわからない言葉を無制限につらつら並べる。それに対して君島と瀬古くんと思われる人が返答する。わたしの論理性はどこかへ消え、自分の頭の中から必死に情景を作り出して描写していく…。誰に届いているのかもわからず、マスクとアイマスクである意味での匿名性を保った状態のまま聞こえる音と発する音だけに神経を注ぐ。覆っている布は増えているはずが丸裸になったようなそんな気持ちで喋っていた。
人工と自然の区分けは?
ユートピアとディストピア、ヘテロトピアの話
アーティストは自認なのか他認なのか。
立場、呼称がつくる日本人の自意識
記録写真とは?
そういったテーマをゆらゆらとたゆたいながらどこに着地するでもない1時間となった。
ところで、トークは何を持って成功と言えるのだろうか?
話者と視聴者が同じ景色を思い描くことだろうか?その理解率の割合が高ければ良いのだろうか?英語を勉強するためにTEDのプレゼンを見ることはあるが、聞く準備をしている人々に話をすることと我々の挑戦しているトークのターゲットは違う。VIVAの来訪者たちは自分たちの仕事に忙しい。作品を見るためにこの場所を訪れているわけではない人々の前でパフォーマンスする行為、その場に共存するために私たちが取る方法論、マイクを使って自分の言葉を拡大する行為、それを一般の人々に向けて行うこと。その場にいた人々はこの場を劇場と捉えるのか、路上と捉えるのか。もしくは迷惑な騒音に思われるのだろうか?
最後にトークを聞いてくれていた方から
What is the difference between the artist and the others?
という質問をいただいた。
この言葉は今回のプロジェクトのテーマ「アートの価値」を考える上で非常に重要なクエスチョンだろう。
非常に月並みで凡庸な答えだがわたしは第三者がそう呼称したかどうかが「違い」のように思える。かなり問題を単純化した場合。アーティストという言葉は結局ただの呼称であるからだ。呼称は第三者へ認識を共有するための代替物であるから非常に社会的な意味合いを含んだ言葉のように感じざるを得ない。だがアーティストという言葉はまだわたし(たち)の描写として正しいのか不明瞭でそこにはギャップを感じつつあるのが私たちの共通認識となった。仕方なく仮の形として呼称しているのかもしれない。立場や呼称が持つ力がこの世界では大きすぎる。
蝉の鳴き声は消え蛙の声と電車の音だけが響く利根川の薄ぼんやりした見え方の世界は綺麗でこれくらいの距離感が理想だと自覚せらるる心地であった。
7月30日 諏訪部
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