第二回読書完走文『星の花が降る頃に』
やってまいりました第二回目の読書完走文です。だいぶ間が空きました。テヘッ
本日は安東みきえ『星の花が降る頃に』(光村図書出版より https://assets.mitsumura-tosho.co.jp/4516/7537/4983/03k_yomu_original.pdf)です。
便利な時代になりましたね。懐かしの作品を手軽に見られるなんて……。(埋め込みエラーが出るので、リンクそのままペーストしました)
私は国語の教科書をつまみ食いするのが大好きだったので、クラスの中で誰よりも一番にこの作品を見つけた時、その作品の繊細さ、そして惹きつけられる挿絵に「これはすごい作品をつけたぞ」と友人に自慢してましたね。それくらい思い入れのある作品です。
【懐かしさと青臭さがギュッと襲いかかってくる】
「私」と戸部くんの距離感、「私」と夏実の距離感、そして「私」は「夏実の他には友達とよびたい人なんていない」独りよがり。
これのミソって「友達とよびたい人」なところなんですよね。「よべる人」ではない。ここに思春期特有の独りよがりな部分が一番滲み出てると思うんです。実際私もそうでした。
あと、夏実の避け方もリアルですよね。隣のクラスの子と話すようにそっと「私」から顔を背ける。「私」と向き合わないことに理由をつけることが上手い。
でも現実だったら私だってそうする。話したくない人とはそっと距離置いて目も合わせないだろうし。
人間臭さの表現が本当に上手い。そして、青春の不器用さを思い出させてくれるその表現の手腕たるや。正直現代小説よりもこれでトベそうなくらい。
【戸部、お前って男は】
なんといってもこの作品の魅力は戸部君なのではないでしょうか。
「私」の周りをうろちょろしてはちょっかいをかける、でも本当に相手が気にしているところには踏み入れずに、それどころかグラグラ不安定に揺れている女の子を慰めるために笑かしに行く……。
しかも「おまえは俺をハンサムだと思ったことが……」「あたかもしれない」
って流れがもう完璧すぎませんかね。
ふーん、おもしれぇ男(笑)
そして、サッカーボールを黙々と磨く姿とか。
あれくらいの年頃の男の子って、やっぱり手入れとかそういう地味なことより、試合とか練習とかで表に立って目立ちたい、自分に注目してほしい人が心の中にいるなら尚更。そんなお年頃だと思うんです。
だけど、地味な作業でも自分で納得して進んで行う姿。大人でもなかなかいないと思うんです。私もできるかと言われたら、きっとできません。「めんどうだな」って思います。
こういう男の子って、同じ世代の頃だと良さが全く見えないんですよね。酸いも甘いも噛み分け、人生を振り返った時に「あ、こういう人が幸せにしてくれるのかもしれない」と思うんです。
「私」と戸部君の結婚式、行けるなら行きたいです。幸せになってよ2人で。
【春に葉を落とす銀木犀】
読み返した時にここでハッとしましたね。中学生の時は気に留めてすらいなかったのですが、よく考えたら春って青春を意味するんですよね。
思春期、心の中はめくるめく変わっていきます。
そんなつもりじゃなかった些細な言動で、友達だった人が友達じゃなくなってしまいます。友達でいたかった人を傷つけてしまうこともあります。
きっと感性が変わって、関係性の違和感も感じるかもしれません。
私たちが感じる日々は葉と同じです。大切にしたいけど割り切らなきゃ、切り捨てなきゃいけないものがたくさん出てきてしまうんです。
ずっと昔の思い出に固執するということは、おばちゃんの言う通り「生きていけない」のです。
それを二次性徴が始まる中学生に背負わせるなんてなんて残酷なんだろう。でも、傷つかなければ、恥をかかなければ、私たちは経験を積むことすらままなりません。
【最後に】
いかがでしたでしょうか。
中学校の授業で習うと学習指導要領(笑)なんてものがありますので、作品を自由に読む余地なんてありません。
一度義務教育という囲いから脱し、「大人が読ませたい読み方」ではなく「私が見た読み方」で作品を見た時に、遥かにこの作品は繊細で、瑞々しくて、そして脆い作品であると再認識しました。
深夜に書いたので、また眠気に打ち勝った時加筆したいと思います。まだ語り足りないですね。
私にとってこの作品は、「私」が夏実と一緒に拾った銀木犀と一緒です。
あの時の鮮やかな香りはもうないけど、そっと青春の痛みと喜びを思い出させてくれるのです。