【葬送のフリーレン1巻感想】大切な人の死を看取らせてあげるという行為は愛情だなあと思う
この前まで『進撃の巨人』を読んでいたので、『葬送のフリーレン』とのテーマの描き方の違いのギャップをかなり感じている。
『進撃の巨人』は自由をテーマとして多角的な視点を圧倒的な熱量でかなり緻密に描写している印象があるのに対して、『葬送のフリーレン』は『死という別れを前提としたコミュニケーション』というテーマを扱っているのにかなり描写が淡白に感じた。一つ一つの小さなテーマをしつこく触るような感じはなさそうに感じる。主人公の性格上そう見えるだけかもしれないけれど。
『葬送のフリーレン』はテーマがテーマなだけに重くねっとりしそうなものだけれど、私にはこれくらいサラリとしている方が私が自分のテーマに向き合う姿勢とは感覚的に近いので没入できて助かる(逆に『進撃の巨人』はあまり深く考えてこなかったテーマを扱っていた作品だったのであの熱量で訴えかけられたのがむしろ良かった)。
葬送というタイトルを冠している割にハイターの死が思ったよりもあっさり描かれたことには驚いた。ヒンメルの死もその瞬間自体は流れるように過ぎていったので、後から考えるとそれはそうだとも思うけれど。重要なのは死の瞬間のことではないのだと思うし。
ハイターがフェルンに「これ以上誰かを失うような経験をさせたくない」という気持ちは私にもなんとなくわかる。家族を喪った人の悲しみは壮絶で、それは側から見ているだけでも苦しいものだろう。
そして、弱っていくところを見せることは、弱っていく自分を見ているフェルンを見ることにもなる。フェルンに自分の看取りをさせることは、きっとフェルンを愛しているハイターにとってはキツい仕事なのではないかと思う。
だけれど、フェルンを真に大切に思うならば、それは多分重要な仕事だったのではないか。
私事ではあるのだけれど、割と最近に私の従兄弟が亡くなった。 私と叔母(従兄弟の母)は関西に住んでいて、従兄弟は東京に住んでいた。だから、私は従兄弟とは十年近く会っていなかったけれど、小学生くらいまでは一緒にゲームなどをして遊んでもらった記憶があって、割と仲は良かったと思う。
死因は自殺だった。私の母が叔母に付き添って東京に出向いて、東京の方で火葬をして、帰ってきた。私は従兄弟の遺体を見ていない。
私が、身近な存在の死で、その死の瞬間に立ち会っていないのは今のところ従兄弟だけだ。心の準備をする前に亡くなったのも、従兄弟だけだ。
私はいまだに従兄弟の死を受け入れられていない。その死に対してどういう感情を向ければいいのかわからないまま、もやもやしたものがどっかりと居座っているのがわかる。
逆に、死が近づくのがわかっていて思い切り可愛がってやり世話をして、思い出を作ることができた飼い猫の死は、私の中でしっかりと意味ができて心の処理ができている。ゆっくりと弱っていくのを見守り、体を撫でてやったり聞こえないとわかっていても声をかけてやったりする中で抱いた憐れみとも寂しさとも言い得ない愛情は私にとってかけがえのない大切な感情になった。
私の経験則から言うと、フリーレンがハイターにフェルンとのお別れを済ませたのは良かったことだろうと思っている。描写はされていないけれど、お別れが来ることをわかっている上でハイターの世話をして、最後の時間を大切にしたことはフェルンにとってかけがえのない思い出になったはずだと私は思っている。
そして、フリーレンはヒンメルを亡くしたことで大切な人を亡くす悲しみをきっと知っている。その上で、大切な人としっかりと向き合う時間を取らなかったことを悔いた経験を活かして、フェルンを後悔から守ってやったフリーレンは、やはりフェルンのことを大切にしているのだろうなと感じた。
ハイターがフリーレンを優しい子だと言ったのもよくわかる。
精神科医の、キューブラー・ロスも『「死ぬ瞬間」をめぐる質疑応答』などで子供には両親やきょうだいの死が迫っている時にはそのことを覆い隠さず別れの時間を設けることの重要性を説いている。
ハイターの死は、物語としてもフェルンがフリーレンと共に旅立つきっかけ以上の意味を持っていると思う。その意味を丁寧に描くのではなく、イメージさせる余白を作っているところが『葬送のフリーレン』の好きなところかもしれない。葬送のフリーレンに登場するキャラは、自分自身の感情移入する余地がかなり多いと思う(その分、人と解釈が大きく割れそうなのが怖いところだけれど)。
私は普段はかなり受動的な読み手だけれど、受け手が創造性を発揮できる創作物というのも面白いと感じた。これから先の展開が楽しみだ。
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