暮らしを続ける
現在私はバンクーバーに留学中である。先日身内に不幸があり、私はまだ悲しみの中にありなかなか気持ちを立て直すことができていない。
葬儀のために一時帰国していたときは、家族と一緒にいることで悲しみの中でも少しは穏やかな気持ちでいることができた。しかしここには言うまでもなく家族はおらず、まだ友達もあまりおらず、一人ぼっちだと感じる。孤独に悲しみ続けることが、苦しい。
そこで私は、留学中の大学にあるカウンセリングセンターに話を聞いてもらいに行った。
カウンセラーの方曰く、大切な人を亡くした悲しみはグリーフという名前がついているそうだ。グリーフは、ラテン語が語源であり、その意味は「重い」だという。それほどに、大切な人を亡くした悲しみは重く、相当に辛いことである。
私たちが想像するように、グリーフから回復するためには時間がかかる。それは時に、私たちが想像するよりずっと長い時間がかかることがあるという。私が感じている悲しみも、無力感も、ぐったりとした疲労をずっと感じていることも、グリーフの一部であり、しばらく付き合うしかないようである。しかし、このような反応は大切な人を亡くした人に誰もが起こるごく自然な反応であり、時間はかかるし大変な道のりではあるが、必ず回復するとカウンセラーは言ってくれた。
そのためには、できる限り健康的な生活を送ることだという。ちゃんと食べて、ちゃんと寝る。そして、生活に自分に楽しみをもたらすことを定期的に行うことが大切だと強調してくれた。そうすれば、少しずつでも回復していくと。
しかし問題は、私が何が好きなのかよくわかっていないことだった。何をするのが楽しいですか、気が紛れますか、気分転換になりますか、と言われても、うーん、寝ることかな…くらいしかその場では思い出せなかった。
少しでも楽しいことをするために、今日はとりあえずケーキを食べにカフェに来た。私はお菓子を作ることが好きなのだけど、今は気力がないので食べに来た。美味しくて幸せだなあと思った。
思い返すと意外と私を幸せにしてくれるものは多い。散歩したり、美味しいご飯を食べたり、友達や家族と電話をしたり、音楽を聴いたり、文章を書いたり。これらのことを意識的に続けていこうと思った。
少しでも普通の生活を続けよう。おじいちゃんが死んだのに、おばあちゃんは突然一人で暮らさないといけなくなったのに、寂しがっているのに、私が普通の生活に戻ることに罪悪感を感じていた。日本から遠く離れてしまい、家族のために何もできないことがすごく辛い。悲しみ続けることが、喪に服すということのような気がした。
それでも、生きないといけない。暮らしを続けねばならない。悲しみに暮れ続け、何もできないままでいることを、おじいちゃんは望んでいないと思う。
意思を持って、普通の日常生活を続けようと思う。大きな悲しみがあることは、自然なことだし、すぐには立ち直れない。私にできることは、十分に寝て、ご飯を食べて、たまに友達と電話して、散歩して、海を見に行って、音楽を聴いて、論文を書くというこれまで通りの日常を送ることだと思った。
それが今は、難しいことなのだけど…できる限り頑張ってみようと思う。