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睦月都『Dance with the invisibles』評:女と女、人の子と仔猫

初出:『現代短歌』2024年7月号(No.103)=2024年5月印刷

 歌集にはいくつもの読み方がある。好きな短歌や秀歌を探すとか、連作や章立ての構成を考えるとか、あるいはその歌人の文体に関心をもつとか、読み方は読者に委ねられている。けれども、どの場合でも歌集タイトルを全く無視することはできないだろう。

 本歌集は『Dance with the invisibles』と題されている。歌集の冒頭連作も同じタイトルだ。冒頭連作から歌を引く。

春の二階のダンスホールに集ひきて風をもてあますレズビアンたち
女の子を好きになつたのはいつ、と 水中でするお喋りの声

 この連作では作中主体が女性同性愛者レズビアンであることが示されている。よって読者は、タイトルの「the invisibles」がレズビアンを意味することを意識して歌集を読むこととなる。

 ところで和歌の時代から二〇二四年現在まで、大半の恋歌は異性愛を前提としてきた。だから読者の私たちは主体が異性愛者の歌集を読むことには慣れている。しかしこの歌集の主体は同性愛者だ。普通だと思われる主体像には条件があり、そこからはみ出すと特殊なものの枠に入れたくなってしまう。かつて「女歌」が問題になったとき、批評の場で「女」は特殊な存在であった。そのように、「レズビアン」はいまだ特殊な存在である。さて、どう読んだものか。

 本歌集は二〇二四年の第六八回現代歌人協会を受賞した。権威ある歌集賞だ。すでに多くの人が歌集の完成度の高さを認めている。名歌集として、歌集から睦月都の志向する文体や秀歌観だけを取り出して論じることも可能である。しかしそれでは、タイトルを全く無視しているようでばつが悪い。
主体がレズビアンだと示されている歌集を読むとはどういうことなのか。例えば次の一首に立ち止まることになるだろう。

鳥獣保護区に入りつつ反芻してゐたり女の人の子どもを産む夢

 掲出歌の下句は「女の子」ではなく「女の人の子ども」とある。いちばんつまらなく読むなら、子どもも人であるから女の子の捻った言い方だと流すことになる。今回は別の読み方を考えたい。例えば、「女の人」は大人に使われる言い方だから、すでに成長した「女の人」であることを想像しながら赤子を産む夢のこととも読める。冒頭連作の文脈に沿うならば、女と女で生殖する際に(現状現実にそれは不可能であるが)、自分が出産する側を引き受けた夢だと読むことになるだろう。染色体の関係で、女と女から生まれるのは娘である。

 話を戻そう。タイトルの「the invisibles」はレズビアンを意味するようだ。けれど、なぜこの歌集でレズビアンは「the invisibles」と書かれているのか。冒頭連作からもう一首引く。

手を振りて駅に別れれば明日にはまた透明の女に戻るわれらか

 この疑問をどうしたものか。こうした問いを扱う分野は一般に「クィア批評」と呼ばれている。ちなみに似た言葉に「クィア・リーディング」もあるが、こちらは例えば、性的志向が明らかにされていない作品などを同性愛的に読んでいく営為を意味する。本歌集の主体のセクシュアリティは明示的だ。

 クィア批評では多数派マジョリティ性的少数者セクシュアル・マイノリティの差異に目を向ける。両者の前提が異なるからだ。さらに異なる前提を提示することで、マジョリティとマイノリティの線引きや、既存の前提が妥当だったか問う。今回はこうした方法論を念頭に置きつつ、歌集を読み解いていきたい。

「the invisibles」の謎を解くにあたって鍵となるのは角川短歌賞受賞作である連作「十七月の娘たち」である。この連作の登場人物は女の主体、母、妹、そして未生の娘だ。Ladies and Lesbian、Lの世界。連作から歌を引く。

沼ちかく棲まへるわれや病める目にときをり娘の幻覚を見つ
告解の少年少女を思はずも雪平鍋に口ひらく貝
煙草吸ふひとに火を貸す 天国はいかなる場所か考へながら
十七月の夜のカタン 娘はいまゆめみるごとく領地拡げて
わが生まぬ少女薔薇園を駆けゆけりこの世の薔薇の棘からむに

 この連作で気になるのは「娘」のことだ。「告解」や「天国」など、キリスト教の語彙も散見される。タイトルの「十七月」は、妊娠期間である十ヶ月を頭の上に抱えた七月の盛夏か、あるいは十二ヶ月を差し引いて五月の初夏か。いずれにせよ夏を連想してしまう。「カタン」は有名なボードゲームで、ある島を舞台にプレイヤー同士が開拓競争を繰り広げるものだ。

 この世のことわりが違っていたら、女同士で子を産むことは可能であったはずだ。キリスト教の語彙はそうした法則の異なる世界を想像する足がかりとなっている。

 ところで「不在」と「透明」は違う。娘は不在で、主体は透明である。レズビアンのパブリックイメージは説明しにくい。どんな顔をしているのか。話し方はどうか。ゲイ男性には「オカマ」という強固なイメージがあり、それに基づく偏見との格闘を強いられる苦しみがある。対してレズビアンには透明人間である苦しみがある。彼女らはしばしばアイデンティティを否定される。気の迷いとか。男を知らないからとか。暖簾に腕押し。アイデンティティの真正性を否定されるのだ。

 結婚せず子を持たない女は居心地が悪い。この世界は男を知って子を成す世界だ。もし女を知って子を成すことができたならば、アイデンティティの真正性は証明されるのではないか。社会の常識の中で、子を持つときに「the invisibles」は血と肉をもって姿を現すだろう。しかしこの世のことわりはそれを許さない。おそろしい理不尽だ。私は「透明」に込められた意味をこう読んでいる。

 ところが、この世界の神は主体に不思議な出会いを与えている。仔猫である。連作「ある夏の手記」と「kitten blue」は一組の連作で、風変わりな科学者の女が成り行きで仔猫を拾い世話することになった物語が描かれる。仔猫は誰かが世話をしなければ死んでしまう点で人間の子どもと同じだ。「kitten blue」から歌を引く。

数式を食事のやうに与へたりわれは機械に物教へむと
手を出せば手に乗つてきて雨のなか ああわたしたち帰る巣がないのだ
蜩のこゑ湧きいづる薄明の夏は非線形に暮れてゆく
何万回でも逃げ出した猫追ひかける 七月、私たちの永久に続くトランジット

 主体の専門は情報工学なのだろう。機械の中の仮想的な世界と、「非線形に暮れてゆく」現実の世界が対比される。また「帰る巣がない」はキリスト教にまつわる言葉だ。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(ルカ福音書九章五八節)。もしイエスが女の姿で生まれていたとしたら、この世界の常識は違っていたのではないか。主体と仔猫の関係性は、そうした理想への乗り継ぎトランジットを予感させるものだ。

その日からいまも降りつづく白い雨 あなたが姉妹都市になる夢
雨粒のまどろみのなかを抱きよせて猫とは毎朝届く花束

 巻末の二首を引いた。女と女による横のつながりと、主体と仔猫による縦のつながりがこの歌集の骨格をなしている。これらの関係性によって、常識的な親密圏は攪乱される。攪乱とは粒子を踊らせることだ。その踊りは、きらきらとしてたまらなく美しい。

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