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私の骨を見せられるかという問い


三枚おろし


先日、ふと魚をさばきたくなった。

祖母がよく作ってくれていたいわしバーグを作りたくなったからだ。
魚をさばくのは、もちろん初挑戦である。

生温い夜風に顔をしかめながらも、何とか外へ出る。
スーパーで手にした5尾のいわしは、「新鮮」とは真逆そのもの。
トレーの上で彼らの目は濁り切っていて、
ふと、まるで自分の目のようだな、と思う。
トレーの上で横たわっているいわしをまじまじと見て、まるで鏡の中の自分を見ているかのような錯覚に陥る。


家に帰り、トレーからいわしたちを救出。

さて、さばくか。

とは言っても、
何度か料理系の動画で魚のおろし方を見たくらいの知識しかない。

どうせハンバーグの具になるんだし、
初めてなんだから、別にきれいにおろせなくてもいいや。

包丁を手ににぎり、いわしの身に刃を入れていく。
刃に背骨が当たる感触がする。


黙々と作業をしていると、また自分がイワシになっていた。
三枚におろされて、私の背骨が人間に観察されている。

瞬間、どうしようもなく恐ろしい気持ちに駆り立てられる。
まるで、キンキンに冷えた手が、
ひたひたと肋骨を直接触っているような感触。

ああ、こわい
やめてくれ、おろさないでくれ
私の骨を、そんなに見つめないでくれ

シンプルに、怖いという感情に支配される。


恐ろしいという感情

私が怖いと感じるもの。

例えばそれは、
おばけ。
人が怒鳴っている場面。
仲の良い人たちと別れる瞬間。
死。

そして、いわしの背骨を観察していて気が付いた。


「私は、人に自分の本心を知られるのが怖いんだ」


中学校に入学した頃から、
私は自分の考えや本音をしゃべることがほぼなくなった。
「今この台詞を言うのが正解なんだろうな」と人に合わせて嘘を吐くのが通常になった。
(もちろん、仲がいい人たちには何でも正直に話しても大丈夫だと安心して本音で話せる)

人に本音を打ち明けるということは、
私にとって自分の骨を見せるようなことだ。

自分の骨を見せるということは、
自分の腹に自ら包丁を入れ、中身をさらけ出すということだ。



私には、自分の骨を見てもらうだけの勇気がない。
特に、知り合って間もない他人には。

会社に入って、
「なんでうちを選んだの?」とか
「将来の夢はあるの?」とか
質問をされる機会が多い。

人から質問をされるたびに、
「どこまで本音で話してもいいんだろうか」と逡巡する。
逡巡した結果、結局嘘7割くらいで話す。
自分も、人から話を聞くときは
「多分嘘/建前だろうな」という前提で聞く。

もし、人前では建前で話すのが「一般的」であるならば。
なんと生きづらい世界だろうか。
社会では、それは「一般的」な暗黙知なのだろうか。

そうであってほしくないと願いながらも、
臆病な私は自らの身を、骨を、ひた隠しにする。


ひたすらさばきつづけて、
目の前には三枚におろされたいわしの身が並ぶ。

こわいなあ。

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