今日読んだ本「人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても」
戸田真琴さんの「人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても」という本を読んだ。
AV女優である戸田さんの物事の捉え方や考え方、周りのこと、読者やファンへ伝えたいことが書かれたエッセイ。
(ここからは書評というよりも、私のことばかりの文章になります。それと、主観がかなり入っています)
まず、あまりにも私と考え方が似ているので驚いてしまった。
この人は自己完結しようという気持ちが強い。誰かにしがみつくとか、頼り切るというようなことはあまりないみたいだ。「人を信じない」という印象を受けながらも、人のために何かをしてあげたい、皆に救われてほしいという思いがすごく強い人だと思った。
戸田さんが皆に優しくするのは自分のためなのかな、なんて思った。損得勘定ではなく、本当に自分が優しくしたいから、そうやって生きていきたいからという理由で。
この本は前半と後半でちょっと雰囲気が違っていて(と感じる人はすごく少ないと思う)、前半は戸田さんの内面の部分、自分だけを信じるとかそういう話が多くあって、後半になると周囲の人々に対する愛とか優しさとかが多くなる。
だから、前半は共感しながら読んだのだけれど、後半は興味深く読んだ。私はまだ、自分のことでいっぱいいっぱいの段階にいる。
似ているなと思った理由はいくつかあって、まず考え方の部分なんだけれど、私がずっとブログや漫画で伝えたかったことを、戸田さんは素敵な言葉で、わかりやすく書いてくれている。
私の文章は、起きたことをそのままにしか表せない。例えば目の前にペンがあったら「これはペンです」としか書けないのだけれど、戸田さんは「今私の目の前にあるのは、思っていることをすぐに伝えられる便利な道具です」と書ける人だ。それなのにわかりやすくて、少し回りくどい表現があったとしても、それが1番良い書き方なのだという気がした。
他に似ていると思ったのは、境遇というか生き方みたいなところで、たとえばAV女優という職業に関しても少し共通する部分がある。
性産業、というか自分を切り売りしてお金をもらうときには、「こうすれば皆喜ぶだろうな」とか「今はこういう流行だから」とかを考えて、それらに合わせていけば手っ取り早く求めてもらえる。でも戸田さんは、簡単に消費されたくなくて、ブログでは自分の考えとか気持ちとか、「普通のAV女優っぽくない」部分をあえて出しているらしい。
私も昔(昔というほどの前ではないけれど)、大勢の人から選ばれるために必要なわかりやすい演出を避け、好きなように、何も嘘をつかないで自分を宣伝していたことがある。結果的に1番にはなれなかったけれど(というか、1番になれなかったのには他の原因も絶対にあったはずだけれど)、私の性格とか趣味、考え方を好いてくれる人たちに出会えたのでよかった。私って承認欲求は強いけれど、自分を偽ってたくさんの人から好かれるよりも、ほんの数人でいいから、本当の私を受け入れてくれる人がほしいのかな。
ただ、自分を出すことが良いとか、偽るのが駄目というわけではなくて、性産業を生身のままで続けるには辛いこともあるので、「仕事での自分」を作っていないとやっていけないという人もいるかもしれない。そうやって、本当の自分に触られるのを防いでいる。
それと、自分を偽って、相手の好みに合うように演じ続けるのだってすごく大変なことだ。AV業界でなくても、アイドルでも音楽家でも小説家でも漫画家でも、自分の中にあるものを切り売りするようなことをしている人たちがぶつかる壁だと思う。自分を切り売りしているからこそ、作品を否定されたら自分の存在までもが否定されたように感じるし、需要や流行に合わせて本当の自分を偽ることもあって、その葛藤とか。
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さて、ここまで戸田さんと私が似ているということを書いてきたけれど、反面、「この人、私と似ているな」というのはあまり当てにならないことを知っている。
ブログを書いていたとき、「あなたは自分とすごく似ています」とコメントをくれた何人かと会ったことがある。
私のそっくりさんがくるのかな、なんてドキドキしながら待ち合わせ場所へ向かったのだけれど、瓜二つ、双子っていうわけではなかった。同じクラスにいても、つるむグループが違うような。後から考えたら、グループは違うにしろ、たまにこっそり2人きりで話すような関係になれたかもな、なんて思ったけれど、少なくとも、ずっと一緒にいるようなタイプではないのは明らかだった。
それは相手もそう感じていたはずで、「思ったより普通の、地味な人じゃん」なんて思われていたはず(ブログを読んでくれている人は、私のことを尖った奴だと思っているらしい。それで、実際に会うと普通すぎてガッカリされてしまう。私も期待に沿えずにガッカリしてしまう)。
というか、そもそも私は一見すると人当たりの良さそうな、人畜無害の雰囲気があって、人見知りだし、初対面の相手に普段ブログで思っているようなことを言えるわけがなかった。それに、相手が私と似ているのであれば、きっとその人も初対面の人には自分を出せないはずだから、かみ合わなくて当たり前だ。
もう1つ感じたのは、誰かの文章を読んで「似ている」と思ったとしても、相手にとっては1つの特徴にすぎないということ。
自分の周りに円があったとして、相手にも同じように円があって、互いの円のはじっこがちょっと重なっただけ、みたいな感じ。
本当はそれだけでもすごいことなのだけれど、その重なった部分があまりにも自分にとって大切だったので、まるで相手とは全ての円がぴたりと重なり合っているに違いない、という錯覚を起こしてしまうのかもな。
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実は普通じゃない人はたくさんいるのでは、という話。
インターネットをしていると、変な行動を起こしたり、頻繁に死にたがっていたりする「普通じゃない人」をよく見かけるけれど、そういう人たちと道ですれ違っても普通の人にしか見えないときがほとんどだ。
ただ、インターネットの中(本心)では普通じゃないことを苦しんでいる人がたくさんいて、むしろ普通の人よりも多いのではという気がして、もしかして「普通」って、社会を円滑に進める能力を持っている限られた人たちによって作られた定義なのかもな、なんて思う。そうすると、こんなに苦しんでいる人がいることの合点がいく。
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なんだか関係のない話にまで発展してしまったので、このへんで終わり。
後出しジャンケンかもしれないけれど、私が今までずっと考えていたことをきちんとした言葉で表現してくれている、良い本だった。
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書くか迷ったけれど、戸田さんも含め、私が今まで「自分と似ているな」と思った人や、「あなたと似ています」と言ってくれた人の顔の系統は、何となく似ている気がする(私の顔もそう)。
可愛い、可愛くないという話ではなく(もちろん、私の顔のレベルは私が1番よく知っている)、雰囲気というか、系統が似ているんだよな。皆「何でこんな子が、こんなことを考えているの?」と言われるような雰囲気を持っている。
人生や内面は顔に出ると思っていて、大体の人は一致している場合が多い。ただ、この系統の人たちは顔と内面の乖離が激しくて、すごく不思議だ。こんなに色々と考えているのに、まるで考えてなさそうな顔をしている。
この系統だけ特別なのか、それとも私が人の顔を見て感じてきたことは浅い部分でしかなくて、実は皆も顔に似合わないことを考えているのだろうか。
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