アメリカ留学を振り返って-思い出の恩師たちMemorable Teachers (2ー1): University of California Santa Barbara 9/1968-3/1969
表紙写真 UC Santa Barbara 1960年代
本稿のフルバージョンはTOEFL Web Magazineの連載コラムFor Lifelong English第136回に掲載されました。拙稿「アメリカ留学を振り返って- Memorable Teachers」(1-1)(1-2)(1ー3)に続きます。現在アメリカ留学は授業料、生活費高騰円安が追い討ちをかけ大変です。でも筆者が渡米した1968年当時は日本はまだ発展途上の貧乏国家、1ドル360円、外貨持ち出し制限もあり現在と比較にならないほど厳しい状況でした。10年続くことになる米国滞在の1年ごとを何回かに分けてお届けします。最近海外留学を目指す若者が激減しているようですが、筆者のいにしえの体験記を読み挑戦していただければと思います。本稿(2ー1)(2-2)(2-3)(2-4)は留学2年目のUniversity of California Santa Barbaraでの体験です。本部中この時期アメリカでラジオから流れていた曲など紹介しております。その時代の雰囲気を聞きながらお読みください。
華のCalifornia州 Santa Barbaraに着く
三日三晩のGreyhoundでの長旅は終点Los Angeles(LA)のダウンタウンで終わり、Santa Barbara行きのバスに乗り換えました。何車線も入り組んだ高速道路から見る夜のLAはキラキラ輝いていました。2時間ほどでSanta Barbaraのダウンタウンに着き、近くのホテルで一泊しました。
1969年9月20日前後であったと記憶していますが、その翌日の早朝、University of California at Santa Barbara(UCSB)のキャンパスがあるGoleta(*1)に向かいました。UCSBは当時Quarter制で新学年度最初のFall Quarterは10月1日から始まります。GoletaはUCSBのキャンパスタウンで、学生用のアパートやレストランなどの商業施設が立ち並び、新学期を間近に控えた通りは学生で溢れていました。西には太平洋が開け、街はそれを見下ろす小高い丘の上に広がり、丘の下には綺麗なビーチが横たわっています。キャンパスの中には海水と川の水が混じるラグーン(lagoon)があり、東にはSanta Barbaraを囲むように延々と続く山並みが迫り、誠に風光明媚な場所です。太平洋の彼方に消えゆく夕日はとても雄大でした。UC Santa Barbara
ルームメイトMikeと友人Tomに会う
その2ヶ月ほど前にLouisiana State University(LSU)にいた頃、UCSBのInternational House(I House)(*2)の空き部屋について問い合わせたところ、一通の手紙を受けとりました。フルネームを失念しましたが、MikeというUCSBの学部生からです。東洋哲学を専攻しており日本人ルームメイトを探しているとのこと、渡りに船とばかりにすぐさま同意の手紙を送りました。
指定された場所に行くと、MikeはTomというアジア系の学生と一緒に迎えにきてくれました。Tomの苗字は「ソーエンソン」、スペルはSorensonでしょうか。幼くして朝鮮動乱の最中に両親を失ったとのこと、右足に被弾した為に切除し、義足を付けていました。「ソーエンソン」というアメリカ人に引き取られ、アメリカで初等・中等教育を受け、UCSBに進学してEnglish(英米文学)を専攻し、来年はStanford University、UC Berkeley、Harvard Universityのいずれかの大学院に進むとのことでした。(*3)
MikeもTomもとても親切で筆者をあちこち案内してくれました。Mikeに日本人のルームメイトを探すように勧めたのはTomであったようです。Mikeは、筆者が日本で英文学修士号を持ちながらUCSBの大学院に進めないことに疑問を呈し、Graduate Admissions Officeに理由を聞きに行こうと言い出しました。前回述べた通り、当時、英語圏からの帰国子女やアメリカン・スクールの卒業生などを除き、英米文学科を専攻する日本人留学生は稀でした。(*4)日本の大学や大学院で英米文学を専攻しても、アメリカの大学院で英米文学専攻に要する英語力を備えるのは至難の業です。LSUのHead of the English Departmentの指摘はまさに図星なのです。ありがたいと思いつつも、Mikeの申し出にはあまり乗り気ではなかったのですが同行することにしました。
案の定、窓口の30代の女性職員はMikeを突っ放すかのようにあしらい始めました。曰く、“Did anyone (in the English Department) say he should’ve been accepted to the graduate English program?”Mikeは何も答えられず戸惑うばかりです。ルームメイトとは言え、赤の他人である筆者の為にこのような屈辱を味わう姿に深く痛み入りました。“Mike, that’s OK.Let’s go.Thank you anyway.”そう言いながらMikeの肩を軽く叩いて外に出ました。女性職員の言う通りです。これからなんとか努力して英語・英米文学でPh.D.を取って日本に帰りたい。今の自分にはその英語力は無い、日本で言えば武者修行のつもりで腕を磨きたい、日本人と日本文化を愛するMikeでしたからその心を分かってくれた筈です。その時に頭に響いたのは大好きなGeorge Lewisが演奏する次の曲でした。
“Over the Waves”(*5)
UCSBでの英文学授業が始まる、当時はとても厳しい評価
10月に入りいよいよ新学年度のFall Quarterが始まりました。Goletaのキャンパスタウンには、homecomingも兼ねてCollege Footballの試合を告げるブラスバンドが練り歩き、陽気で明るいアメリカを彷彿させるかのようです。他方、テレビではベトナム戦争のニュースが流れ、前線での激しい戦闘シーンが放映されていました。同じアメリカ人でありながら一方は殺戮の場に、一方は饗宴の場に?というギャップに戸惑いました。大学にいる限りは徴兵(draft)されませんが、ドロップアウトすると徴兵されてベトナム行きという時代です。学部生が大学に残るためには平均C(GPA2.0)以上の成績、大学院生はB(3.0)以上の成績が必要とされました。
成績(grades)は、A(Excellent=4.0)、B(Good=3.0)、C(Fair=2.0)、D(Poor=1.0)、F(Failure=0)の5段階です。例えば、Fall Quarterに4単位(credits)の授業を4つ取り、それぞれの成績がA、B、C、Dである場合、(4×4)+(4×3)+(4×2)+(4×1)=40になり、それを総単位数16で割りGPAを出します。この場合のGPAは40÷16=2.5です。Winter Quarterでも同じく4creditsの授業を4つ取り、成績がC、D、D、Fであったら、(4×2)+(4×1)+(4×1)+(4×0)=16で、この学期のGPAは1です。ここで2学期通算のGPAが計算され、1.75になってしまいます。すると、OfficeからGPAが足りないことを警告されて”On probation”になり、次の学期までにGPA2.0以上に改善しないと退学”Flank out”になります。次の大学を探してacceptされてtransferできなければ徴兵ということになります。
院生の場合はGPA3.0でさらに厳しくなります。こんな社会情勢を背景にして公的資金に依拠する州立大学全般に言えたことは、徴兵逃れの聖域とならないよう成績評価を大変厳しくしていたように思えました。前回述べたように、LSUでも学部生はCを取るのに四苦八苦していました。自国の学生さえ大学に残るのが厳しかったのですから、日本をはじめアジアやアフリカや中近東から殺到する留学生が入学許可を得るのがいかに難しかったかは容易に想像できるでしょう。1970年のアメリカ軍カンボジア侵攻による戦況拡大を匂わせるかのように状況は更に厳しくなっていきました。大学進学率が低くベトナム前線に送られる可能性が高いと見られたアフリカ系アメリカ人の学生組織Black Student Unionの抗議の声も高まり、大学には人種問題も絡んだ反戦の嵐が吹き荒れ始めました。(*6)
一方では声を上げない大多数の“Silent Majority”がおり、その内面を歌うかのように、LSUのキャンパスで観た映画“The Graduate”の主題歌の一つSimon & Garfunkelが歌う”The Sound of Silence”がよく巷に流れていました。
“The Sound of Science Full Album”
(2-2)に続く
*1)California州にはスペイン語の地名が多く、スペイン語訛りと英語訛りの発音の仕方があります。Goletaはスペイン語訛りでは/go le ta/英語訛りでは/go li: ta/と発音されますが、筆者は後者をよく耳にしたと記憶しています。前者と後者の中間の発音もあるようです。スペイン語に由来する地名は英語話者にも難しいようで、この点だけでも、アメリカ英語の発音は一筋縄では行きません。興味がある読者は、次のサイトを参照してください。”California City Names Pronunciation“
(*2)当時はアメリカの多くの大学のキャンパスにはInternational House(略称I House)という宿舎がありました。大学により名称は異なりますが、当時のUCSBにもI Houseがあったと記憶しています。
(*3)以前にも話しましたが、アメリカでは卒業する大学の大学院にそのまま進まず、他大学の大学院に進むというケースの方が圧倒的に多いです。1970年代のUC Berkeley(UCB)の大学院カタログには、UCB卒の学生がそのままUCBの大学院に行く事を奨励しないとさえ書いてありました。TomもUCSBの大学院ではなく他の大学院を狙っていました。但し、scholarshipかfellowshipをくれることが条件で、その返事待ちだと言っていました。
(*4)アメリカの大学と交換留学協定を結んでいた大学からの交換学生は比較的スムーズに英米文学科に受け入れられていました。但し、原則1年在籍して日本に帰らなければならなかったようです。日本の大学に帰らずそのまま在籍して卒業する人は稀少でした。
(*5)”Over the Waves”(1884年)はメキシコ人作曲家によるワルツです。世界中で流行し、日本にも「波濤を超えて」と邦訳されて入ってきました。筆者はGeorge Lewis楽団が演じるバージョンが好きです。最初はBlues調にもの悲しげにゆっくりと、後半は速いテンポで軽快に演奏しています。留学中はこの曲をよく口ずさみました。遅々として進まぬ前半の4年間、一気に進み出した後半の6年間が重なりました。ちなみに、New Orleansの伝統的な葬式の行列では、列を導くmarching bandが、往きはスローテンポでゆっくり演奏し、故人を悲しみ静かに行進します。一転、埋葬を終えるや、故人が天国に行ったことを喜んでアップテンポに演奏しながら賑やかに帰ります。そのGeorge Lewisは1968年12月31日にNew Orleansに亡くなり、彼の葬式の模様がテレビのニュースで流れました。New Orleans最後の伝統に則ったものになるかもしれないと述べていました。
(*6)University of California,Berkeleyは当時反戦運動の中心で、California州知事(後大統領)Ronald Reaganは反戦活動家の一掃を図る為にUniversity of California System全体の授業料を上げたとも言われました。その後、1970年5月4日Ohio州Kent State UniversityではThe Ohio National Guardが反戦デモの学生に発砲したのをきっかけに全米の大学で学生による授業放棄のストライキが始まりました。以下の関連記事など参照してください。 “Berkeley, A History of Disobedience in Pictures” “The Invasion of Cambodia” “Kent State Shooting” UCSBのBlack Student Unionが校舎を占拠した事件は全米の注目を浴び、筆者自身、学生たちが賛否両論の激論を交わしている現場を見ました。1968″A Global Year of Student Driven Change“