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アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers (その6の4) Georgetown University Ph.D. Program in Linguistics,1973 (分割バージョン)

表紙写真:凍てつくポトマック河からGeorgetown University を望む(Winter at Georgetown Suburb of Washington DC. Stocより)


「アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers(その6の3)Georgetown University Ph.D. Program in Linguistics (分割バージョン)」  の続き(その6の4)です。1973年12月Georgetownでの最初の学期が終了しました。来年1月初旬までクリスマス・ニューイヤー休暇でこの時期大学構内から学生はすっかり消えて閑散とします。



当時のGeorgetown大学院言語学科のGradingは厳しく Aは10人中1~2名、Ph.D.に進むには全科目Aアベレージ

1973年の秋学期に受けたこれら3つの授業で学ぶ知識は、Ph.D. programの全設置科目の基盤とされ、モタつく訳には行きません。当時のGUの成績評価は前述した通り厳しくて、各授業でAはTop 5%にしか出さないと聞いていたので大変緊張しました。筆者より1年前に始めた学生達が、10月初めにQualifying Examination for Ph.D.(Ph.D.コース資格試験)を受け、その結果が学部のブルティン・ボードに貼りだされているのを見ました。

既述した通り、master’s comprehensive examination(修士号候補者試験)と同一試験で、No Pass, Pass, High Passの三段階で評価され、High Passを受けた人のみがQualified to continue Ph.D. programと書き出されます。受験機会は2回だけです。(*11)40人以上受け、High Passと判断されていたのは5人程度でした。筆者も来年の1974年のこの時期にこの試験を受けてHigh Passで通過しなければなりません。それに向けて幸先の良いスタートが切れました。

1973年はアメリカ社会では激動の年でした。1972年大統領選で共和党候補のNixon陣営が、Watergate Hotelにある民主党本部に盗聴器を仕掛けた事件が発覚し、1974年8月にNixon大統領が弾劾されて退陣するまでの中間点でした。事件現場のWatergate HotelはGeorgetownから歩いて行ける距離のPotomac河沿いにあり、裁く方にも裁かれる方にもGU関係者が居り、見慣れたシーンが世界中のテレビに放映されていました。Henry Kissingerなど著名な政治やメディアの要人が住み、社交場としたところでもあります。筆者らも授業が終わるとM Street & Wisconsin Avenue交差点を中心に広がるレストラン、映画館、パブに出かけました。この年にリリースされた映画“The Exorcist”はGUキャンパスのすぐ横で撮られ、ツーリスト・スポットの最後のシーンの階段はGU生がよく使う階段です。

DC's Exorcist Stairs Considered for Historic Landmark - RVA Mag

この階段を上ると大学があり、降りるとGeorgetownの繁華街M Streetが広がります。筆者もよく使いました。

M Street in Georgetown--my favorite street in the entire world ...

1973年はWatergate事件 (1972)、オイル・ショックなどで激動の年

Watergate Building (Georgetownから徒歩圏内)

そして1973年と言えば、中東産油国主導のOPECが石油輸出を制限したことによるoil crisisが勃発した年です。日本ではトイレット・ペーパーの買い付け騒ぎが起きましたが、アメリカでは原油不足でガソリンが高騰し、配給(rationing)制度が布かれて全米のガソリン・ステーションに長蛇の車列ができました。一度に買える量は制限され、夜間は閉鎖されました。車を所有していなかった筆者には直接の影響はありませんでしたが、1968年3月にアメリカに来てから初めて見る光景です。キャデラックやリンカーンなどの8気筒の大型車の時代は終え、日本の小型車へ人気が集まった転換期になったことは確かです。

ARCO fuel tank refueling station for long gas line — Calisphere

クリスマス・ブレイクにはライドシェアで大雪の中を3日掛けてカリフォルニアへ

加えてこの年の冬は厳冬で雪が多く、12月23日頃から始まるWinter Breakで各地に帰省する多くの学生達にも影響が出ました。車で帰るにも飛行機で帰るにも、Christmasの帰省ラッシュとoil crisisが重なり、例年に比べて旅費は高騰したからです。筆者自身も、きつかったFall Semesterを終え、また1月に始まるSpring Semesterに気持ちを整える為、どこかでchange of airをしたくなりました。アメリカに渡って、冬はCaliforniaやHawaiiでしか過ごしたことが無く、D.C.の冬は見るからに厳しそうでCaliforniaがとても恋しくなりました。ふと、図書館横のブルティン・ボードに目をやると、Northern Californiaに車で帰る人が同乗者を探している旨のridesharingメモを見つけ、即電話してみました。もう一人の同乗者と筆者も含めて3人でガソリン代を3分割するということですぐ承諾しました。これでCaliforniaの友人達を訪ね、ChristmasとNew Year Dayを過ごせます。1年ぶりのSan Franciscoに向けて、四輪駆動のJeep Cherokeeに乗り込み、記録的な吹雪の中、The Northern Routeを3日3晩、運転を交代しながらひたすら走り続けました。雪は降り止むことなく、Pennsylvania州とIndiana州では、アイスバーンでスリップしてコーン畑に飛び込み、多くのガソリンスタンドが閉まる中、開いているところを探しながら給油し、食事の時以外はノンストップで突っ走りました。


Photos: The 1973 blizzard that shut down Milwaukee - in April

眠気覚ましにかけっ放しにした各地のFMステーションから、Elton Johnの“Goodbye Yellow Brick Road”とThe Stylisticsの“Rockin’Roll Baby”が何度もなんども流れてきました。Nevada州を過ぎてSierra山脈を越え、California州に入りしばらく進むと雪は雨に変わり、なま暖かい風とともに白銀から一面の緑の世界が広がりました。(*12)


San Francisco, 1973: How Many Cars In This Photo Can You Identify?

East OaklandのWilson家に泊まってChristmasを過ごした後、Los Angelesの知人を訪れてNew Year Dayを過ごしました。当初の予算を超えて出費し、所持金はいよいよ僅か、でも、気分は爽快、次のsemesterに向けエネルギーを蓄え帰路につきました。次回は1974年Spring Semesterの授業とQualifying Examination for Ph.D.受験の奮闘の様子をお伝えします。

(2020年7月11日記)

「アメリカ留学を振り返って:Memorable Teachers (その7-1)」に続く

オフィシャルサイトFor Lifelong English 生涯英語活動のススメをオープンしました。

(*11)2回受けて失敗した学生は“Terminal Master”と記され、去らなければなりません。現在は知りませんが当時大学院言語学科博士課程進学志願者は相当数いました。

(*12)California州の夏は砂漠気候で乾いている為に草は枯れていますが、冬は雨季で辺り一面緑になります。


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鈴木佑治
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