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アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers (その2の2): University of California Santa Barbara (分割バージョン)

表紙写真 UC Santa Barbara

[アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers --University of California Santa Barbara 9/1968-3/1969」(2-1)の続き(2ー2)です。


生活費が底をつきキャンパス・ジョブを見つける

筆者は、授業料はなんとか工面できたものの、生活費は底をつき、当時F1ビザの留学生に許されていたオンキャンパスのパートタイム・ワーク(on-campus job)を見つけて働くことになりました。早朝6時から9時までの3時間、学生寮付属のカフェテリアにおける皿洗いの仕事です。女性の総支配人の下に学生パートタイム・ワーカーを監督する学生マネジャーと数名のフルタイム・ワーカーを管轄するフルタイムマネジャーが居ました。学生ワーカーは20名程で、筆者を除き全員白人、フルタイム・ワーカーは4~5名で全員アフリカ系アメリカ人でした。筆者にとっては日常英語を学ぶのには最適な場で、一緒に働いた全員を日常英会話の先生と思いつつ接しました。(*7)

アメリカの大学は午前8時から授業があり、朝食時間開始の7時から皿洗いの現場はまるで戦場です。トレイに乗った食器類がベルトコンベヤーで次から次に送られて来ます。そのコンベヤーに沿って学生アルバイトが並び、並行して設置された勢いよく水が流れるトレイに食べ残しの食料を惜しみなく捨てます。アジア、アフリカ、南米では飢饉が発生し、日本でも戦後の食糧難を乗り越えたばかりの時期でしたから、いとも簡単に食べ物を捨てることには違和感がありました。「トレイの食べ物を食べたり持ち帰ったりしないこと」との警告文を見ながら腑に落ちない気分を持ちながらの作業です。(*8)

アフリカ系アメリカ人のフルタイム・ワーカーと学生パート・タイム・ワーカーと皿洗い

列の先頭にアフリカ系アメリカ人のフルタイム・ワーカーが居て送り込まれてくるトレイが溜まるのを上手にさばき、後尾にはもう一人のアフリカ系アメリカ人が積み上げられたトレイと食器を大きな洗浄機に詰め込みます。洗浄されたものを取り上げてさばくのもアフリカ系アメリカ人のフルタイム・ワーカーでした。(*9)基本全員が男。プラスチック製の皿の一片を持ち、こびり付いた食べ物をスチール製の台に叩いて振り落とすけたたましい音が響き渡り、洗浄機の温水で水蒸気が立ち込めていました。”Stop!” “This is ridiculous!” “OK, start again!” “Silverware!” “Stop the dishwashing machine!”など、罵声が飛び交うのです。何をstopし、何をstartするのか、何がridiculousなのか、緊迫した現場の状況にあってやっと理解できる会話です。(*10)

“Hey, are you related to Suzuki Motor Cycle?”(*11)隣で作業をする白人学生が冗談半分に質問した一コマを覚えています。”If so,I’m not washing dishes with you!”と言い返したものです。アフリカ系アメリカ人のフルタイム・ワーカーは、初老、中年、20代前半の若者の3人で、白人学生とはあまり口を利きませんでしたが、筆者だけにはよく話しかけてきました。若い方は陽気で、月曜日の朝に顔をあわせると週末行ったパーティーの話をしてくれましたし、白人とアフリカ系アメリカ人のダンスの違いを即興で見せてもくれました。”Hxxxx* dance like this,but Nxxxx* dance like this!”あのシーンは今でも忘れられません!声帯模写と形態模写がとても上手いのです!

そんなある日、いつものように皿洗いの現場に行くと、とても綺麗なアフリカ系アメリカ人女性が居て、筆者の横で作業しはじめました。女性は彼女1人です。彼女は他のアフリカ系アメリカ人とも白人学生とも一言も話さず、以来、いつも筆者の横で作業をすることになりました。夫はUCSBの大学院生らしく、数週間後のある週末、筆者を食事に招いてくれました。夫はアフリカ系アメリカ人で社会学(sociology)を専攻しており、背が高くnice-lookingで、彼女と並ぶと絵に描いたような美男美女カップルです。奨学金だけでは足らず、彼女がパートで働いて生活費の足しにしているとのことでした。

週明けの月曜日の早朝、皿洗いの現場に行くと、どこから漏れたのか、話はアフリカ系アメリカ人の3人の耳に達しており、筆者の顔を見るや大声で”Hey!”と呼びかけてきました。それを機に3人はいろいろなことを筆者に話してくるようになりました。筆者にとってはアフリカ系アメリカ人英語(African American English,略語AAE)と接する最初の場となりました。全部は分からなくてもとても貴重な体験であったことは間違いありません。例の女性は相変わらず筆者の横に立って作業し、筆者も重いものを運ぶときには進んで手を貸してあげました。彼女ともよく話すようになりましたが、彼女はAAEではなくStandard English(SE)で話していたと記憶しています。筆者も彼女もこの皿洗いの現場では特殊な存在であったからでしょうか、互いに親しみを感じ合えたのは確かです。

学生街アGoletaのアパートでの暮らし

さて、ルームメイトのMikeは東洋哲学、わけても、日本の哲学・思想に心酔した白人 (*12)です。菜食主義者で小柄で物静かな青年でした。パンは自分で焼き、床にマットレスを置いて寝ていました。靴を持たず、どこに行くのにも裸足です。当時のヒッピー族と同じように長い髪を後ろで束ね、シャワーがあるのにあまり入りませんでした。人付き合いはあまり無く、唯一の友人と言えば前述したあのTomだけでした。そのTomも同じアパートに住んでおり、頻繁に筆者らの部屋に来ては話し込みました。長距離歩行ができないので1955年製の古いアメリカ車を足代わりにしていました。マフラーからは多量の煙を放出しガソリンを入れる度にオイルを補充していたのが印象的です。車を持たない筆者とMikeもあちこち連れて行ってもらいました。

筆者らの部屋は一階で、Tomはアフリカ系アメリカ人のルームメイトのRufusと二階に住んでいました。Rufusは大学3年であったと記憶していますが、とても綺麗好きで、彼らの部屋のリビング、キッチン、ベッドルームとも綺麗にきちんと整頓され、筆者らの部屋とは大違いでした。Rufusはアパートの大家さんに信頼され、アパート全体の管理を任され、時々大家さんが訪ねて来て管理上の話をしていました。Rufusも物静かで控えめな青年でしたが話すとなかなか饒舌で、授業外で現地学生と話すとても良い機会になりました。


筆者が住んでいたアパート右上2階 1968年当時そのまま

大学のキャンパスは、筆者のアパートから歩いて10分くらいの所にありました。朝5時半に起きてキャンパスに行き、6時から8時までカフェテリアで働いてそのまま授業を受け、午後遅くから図書館で勉強というのが筆者の週日の生活パターンです。授業に話を移すと、9月末に新入り留学生7名全員が英語のテストを受けるよう言われました。その後に行った大学でもそうでした。全員半ば強制的にEFL(English as a Foreign Language)のコースを受けることになり、その為に履修できる英文学の授業はたった一つということになったのです。それも、UCSBに在籍したFall QuarterとWinter Quarterの2学期に亘り履修させられました。しかも、EFLコースは一つしか設置されておらず、全員がそこに押し込められたことで低いレベルの履修者に合わせざるを得ず、筆者にはあまりにも易しすぎました。アメリカの大学は嘆願書(petition letter)を書けば考慮されることを薄々知っていましたが、そのまま履修し続けてしまったのが今でも心残りです。(*13)


(*7)筆者は1967年にお茶の水駅近くの英会話学校に通ったことがあります。講師はUC Berkeleyでsociologyの大学院に応募していて返事待ちのアメリカ人の男性でした。とても良い人でしたが、何せ料金が高くて回数が限られた為、あまり上達しませんでした。それに比べたら、お金を貰いながら毎日3時間もnative speakersと話せるのですからとても価値ある体験でした。アメリカのon-campus jobsはこうした肉体労働だけではなく、図書館、各種officesでの仕事、大学院生には教える仕事もありました。仕事を通して学ぶ、これもアメリカpragmatismの影響でしょう。
(*8)現在日本でも賞味期限切れの食べ物を捨てることへの問題意識が高まりつつあります。
(*9)1969年にリリースされた名画”Midnight Cowboy“のオープニング・シーンではテキサス州のある街のカフェテリアの皿洗いの現場が出てきます。筆者が働いたUCSBのカフェテリアはもっと綺麗でしたが、主役Joe Buck(Joh Voight)と現場監督African Americanとのやりとりなど、この映画を見るたびに懐かしさが込み上げてきます。ちなみに、Harry Nilssonの歌う主題歌”Everybody’s talking at me“は世界中で大ヒットしました。
(*10)筆者は後になり言語使用における状況の意味を究明してきました。UCSBでの皿洗いの現場はその良例です。ここでは主語や目的は言語化されず、状況から判断しなければなりません。言語教育にも応用できます。これらに関する拙著書、論文、英語教科書については本コラムのバックナンバーの稿にあります。
(*11)1968年、まだ、California州でさえ日本の自動車を見かけることは稀でした。輸入車といえば、VW Beetleの全盛期でしたが、オートバイはSuzuki, Honda, Kawasakiなどをよく見かけました。お陰で筆者の苗字Suzukiはすぐ覚えてもらえました。
(*12)正式には、白人はCaucasians(コーカサス人)、黒人はAfrican Americans、アジア人はAsian Americans、アメリカ・インディアンはNative Americansであることも分かってきました。東洋人orientalとかnegroという呼称は前時代的なものとして避けられ、Mexican Americans,Japanese Americans, Chinese Americans, Italian Americans, Polish Americans, Jewish Americansなど出身民族や国別呼称も使われて始めました。所謂白人の中には、”I’m half French and half Irish.”とか”I’m one quarter of Swedish.”などという言い方をよく耳にしました。自分のルーツを探りそれを誇りにするという考え方が根付きはじめた時期です。
(*13)アメリカでは学業に関することで迷ったらアカデミック・アドバイザーに相談し、嘆願書を書くと認められることがあります。以前、EFLは最初の数ヶ月取れば十分であること、なるべく早く正規の授業を取ることなどを述べましたが、全てUCSBでの経験に基づいたものです。

For Lifelong English 生涯英語活動のススメ (鈴木佑治Website)

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鈴木佑治
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