Post-Pandemicアメリカ大学事情「光」「真実」などモットー再起動なるか,使命を終えるかの瀬戸際(後編)
はじめに
(前編)(中編)の続きです。(前編)と(中編)を要約します。
(前編)大学のモットー(mottoe)は、各大学の教育理念を掲げそれを実行するという約束、実行しなければ約束違反、世間の不信を買う。魅力ある大学は魅力あるmottoeの下、魅力ある教育、研究に勤しんでいるからである。著名校のmottoesには光(Lux)と真理(Veritas)という2語が謳われている。これらの2語は聖書の影響もあるが、17世紀、18世紀のヨーロッパ啓蒙思想の影響も多分にある。筆者自身もまだアメリカが(英文学の)留学先としては話題にもならなかった1960年代後半に敢えてアメリカ留学を決断したのは各大学が掲げていたmottoesであった。確かに聖書やヨーロッパの啓蒙思想の影響もあるが、聖書やヨーロッパの啓蒙主義の影響を受けつつもアメリカ独自のプラグマティズムが加味される。すなわち、アメリカは17世紀から18世紀にかけてバージニア州やニューイングランドに建てた13植民地時代から実用性を重んずる生活を強いられ、19世紀にプ独自のプラグマティズムを育み、その影響もこれらのmottoesに反映されているものと考えられる。
(中編)最初の植民地の一つJamestownで感じるプラグマティズムの原点実用性。志望動機書でも授業評価でもプラグマティズムの「役立つuseful」がキーワードである。 Harvard, Yale, Princeton, Columbia, Pennsylvania のモットーにある真実"veritus"には "useful"が反映され、1800年以降に設立されたMITほかの大学のmottoesの文言は、Peirce, James, Deweyのpragmatismに呼応するかのようである。特にMITが掲げる"Mind and Hand"のmindは神経科学、認知科学、AIを、handは先端的物作りに象徴的に呼応し、U. of Marylandの"Deed and Gentle Words"は社会ニーズに即応し、同大はまさに社会ニーズに応じたプログラムを提供し人気が高い。
本稿(後編)ではアメリカの大学のモットーにプラグマティズムの理念がどう反映されているか、さらに掘り下げて探ってみます。尚、この年は大統領選に揺れた年です。そして明けて2021年1月6日にアメリカ史上前代未聞のCapital Attackが勃発しました。いみじくもアメリカの価値観が根本的に問われる年になり、各大学も2分された世論を前に対応に苦慮したことでしょう。LuxとVeritusやいかに。では(後編)です。引用サイトは2020年12月のままです。
Pragmatismの真意は?浅薄な実利主義ではない
「アメリカ社会の諸分野に影響を与えたプラグマチズ(pragmatism)について」で述べた通り、日本語では、pragmatismは実用主義、現実主義、実利主義と訳されますが、「実利主義」という訳には要注意です。「実利」という言葉が功利主義的処世術と解釈されるかもしれないからです。以下のpragmatismの要約を見ればわかるように、pragmatismは、一方ではDescartesの抽象的普遍性を求める合理主義に対し、他方では、Lockeの感覚的体験全てが知識となるという体験主義に対抗するもので、浅薄なものではありません。
✓普遍的(universal)、絶対的(absolute)、超越的(transcendental)理念ではなく、相対的(relative)な文化の実践(culture’s practices)を理解する術(the art of understanding)を追究する。
✓デカルトDescartesの合理主義(Cartesianism)、それに対峙したLocke、Hume、Berkeleyの経験主義を共々批判する。Descartesは、精神と身体を高次元、低次元のものとして分ける二元論を唱え、低次元の知覚や感覚などの身体的体験による信念(beliefs)を主観的なものとして却下し、高次元の精神に属する超越(transcendental)、客観的(objective)、普遍的(universal)真理と称するもののみを追求し、主観的な信念を虚偽なものとして棄却した。
✓それに対し次のように反論する。信念こそ実践・行動を導くルールである。信念は判断過程において生成される仮説(working hypotheses)であり、知識を築く上で重要な要素である。ある理論が真偽であるかどうかはその結実である実践・行動をもって判断され、信念は、実践・行動においても判断過程においても作用し、信念を排除するのは非現実であり、よって、デカルトの合理主義は的確ではない。
✓Lockeらの経験主義(empiricism)の知覚と感覚を通して物事を認識するという点では同意するが、Lockeらの人間のこころ(mind)は生まれながらに白紙状態(a blank slate/ the tabula rasa)であり、全ての知識は感覚を通して経験することにより得られる情報で構成される、すなわち、受容する知覚情報がそのまま知識になるとした主張に対し、能動的に取捨選択されたもののみが知識になると反論する。(*13)
Conspiracy theoriesに陥らぬよう個人的利便性や思い付きに細心の注意を払う
ましてや、個人的な思いつきから来る利便性ではないことは一目瞭然です。
✓人間社会に介在する現実問題に立ち向かい、その解決に向け、理論・知識を実践・行動を通し、実用性を判断する。自説を真とし、他説を偽りとするなら、自説がどのような具体的で実用的な結果をもたらすかinquiry(探求)をして判断する。
✓文化は、静的な遺産ではなく、現在進行中の会話であり、哲学は、その刻々と変化する営み(実践)を解釈することを目的とする。会話としての動的文化を構成する科学、哲学、芸術、道徳、宗教等々に顕現する様々な声における相互関連を見出す方法を探求することが哲学の本来の姿である。(*14)
アメリカも建国以来現在まで、数々のいわゆるconspiracy theories(陰謀説)に苛まれてきた歴史があります。特定個人や団体が、正しいのは自分たちだけかのように声高に豪語します。即物的で分かりやすい反面、確固たる証拠(evidence)がありません。十分な証拠(evidence)を伴わない言説は、単なる思い付き(assumptions)に過ぎず、学問の世界ではbig Noです。Pragmatismは、現実社会の実用性を重んじるが故に、殊更そうならないよう細心の注意を払ってきたと思われます。上述のPeirce、James、Deweyら始祖3人に続くGeorge Herbert Mead(1863-1931)やC. S. Lewis(1898-1963)、W. V. O. Quine(1908-2000)、Hillary Putnam(1926-2016)(*15) 、Donald Davidson(1917-2003)、Richard Rorty(1931-2007)らの論述からその事が伺えるのです。以下「アメリカ社会の諸分野に影響を与えたプラグマチズ(pragmatism)についてより抜粋します。
✓ある理論の正当性を判断するには、事前に収集したデータと照らし合わせることではなく、事後の実践結果を精査しなければならない。
✓理論は現実を処する道具である。理論の有効性は、問題解決力(the power of problem-solving)で判断される。情緒的で主観的な慰みをもたらすのみの一過性のものではなく、時を越え、何度も厳しい問題に立ち向かい、重大な困難に対処しうる信頼性が高いものかを問う。
✓能動的取捨選択は、「知識は誤りうる」という可謬主義(Fallibilism)の立場から、経験を通して得る知識はそのままでは現実にworkする知識にはなりえない。よって、Deweyの著書Logic: The Theory of Inquiry(1938)のタイトルが示唆する、inquiry(探求)が重要である。
✓知るということ(knowing)は、Lockeらの知覚情報の受容という受動的プロセスの結実(the spectator theory of knowledge)ではなく、inquiryという能動的なプロセスの結実である。言い換えれば、疑念から信念に導く問題解決プロセス(a problem solving process)の結実以外の何物でもない。inquiryを効果的に進めるには、実験、すなわち、現実を操作し変化させるプロセスを伴う。
✓知覚された情報は、能動的inquiryを通し、取捨選択されて加工され、知識となる。知ることは能動的行為であり(=the experimental theory of knowledge)、ヒトは行為者(agents)であって受容者ではない。(*16)
Inquiryの重要さ、相対的、個々の判断に依存、誤りがあればすぐ正す姿勢、ジョージア大学のmottoにはInquiryが
このように、アメリカの大学がpragmatismの伝統を受け継いでいることは明らかですが、その伝統はPeirce, James, Deweyに端を発するというよりは、彼らは実用性を重視せざるを得ない土壌に芽生えた伝統文化の申し子で、科学方法論としてその伝統文化を体系化する役割を担ったと考えて良いでしょう。19世紀後半以降の彼らの活躍に助長されたのは確かですが、こうした考え方の雛形は、それ以前に存在していたと思われます。事実、Peirceらが活躍する50年も前の1785に創設されたUniversity of Georgiaのmotto “Et docere et rerum exquirere causas”(To teach, to serve, and to inquire into the nature of things)には、pragmatismの生命線である“inquiry”を謳う文言がすでに明記されているからです。(*17)
そして、そのinquiryに必要なのが、次回で取り上げるinductive(帰納的)、deductive(演繹的)などによるreasoningで、現在よく言われるcritical thinkingに繋がるのです。冒頭で述べたように、pragmatismを浅薄な実利主義と誤解すると、“veritas”とは程遠い、欺瞞(fraud)で独りよがりのconspiracy theoriesを増産することになります。そうならぬよう、pragmatismでは、とりわけ重要な位置をinquiryに託しています。
Pragmatismのスタンスは相対的、かつ実用的で、絶対的に正しいものはないと主張する分、個々の判断への依存度が高くなります。そこで、加謬主義を取り入れ、綿密なデータ、evidenceを根拠に、誤りがあれば、正していくという姿勢がどの学説よりも求められるのです。新天地フロンティアでは自分勝手に実利を追求する行動が横行しやすく、国を統一するためにinquiryの精神は必要不可欠であることは十分頷けます。
大学はinquiryを通して世の光(lux)となるべくveritusを追求する責務を負う
大学は世の光(lux)となるべく、inquiryを通して“veritas”を追求する責務があります。アメリカに留学した1968年から1978年の10年間、筆者はアメリカの複数の大学で学び、アメリカの大学はその責務を果たすべく輝いていました。ですから、帰国して教鞭を執り、多くの学生にアメリカ留学を勧めてきたのです。しかし、ここ4年間、アメリカの大学はそうした“lux”を掻き消すような風潮に見舞われ、留学生には近づき難い存在になったような気がします。もし筆者が留学を考える読者なら、“lux”と“veritas”の火を失わぬよう、具体的な目標に向けて邁進する大学を探し、留学先の候補とするでしょう。この数年間の日本では大学生らが留学そのものへの関心を失い、アメリカ留学を考える学生数は大幅に減少しています。
慶應義塾の創始者福沢諭吉は「実学」pragmatismを重視した
日本でも慶應義塾創設者福澤諭吉先生は「実学」を重視しました。まさにpragmatismです。(*18)アメリカ使節団で渡米し、そこでの政治、経済、社会に浸透していた実用的な制度に関心を持ちました。明治維新になり、そうした制度が取り入れられましたが、実は、日本文化の歴史をみると、日本人は元々実用性を重んじ応用力に長けており、使節団が渡米した時には驚きとともに共感することも多かったものと感じます。戦後は1960年代に私費留学が解禁され、多くの日本人留学生がアメリカの大学の研究・教育に加わり成果を上げてきたのも、元々兼ね備えていたpragmatismの精神を開花させる場所が与えられたからでしょう。アメリカの大学の魅力は誰にでもそうした場を提供する制度、施設、カリキュラムがあったからで、それが世界中の若者を引きつけたものと考えます。
筆者母校のGeorgetown Universityの“Utraque Unum”(Both into One)について
最後に、筆者の母校Georgetown Universityのmotto “Utraque Unum”(Both into One)について一言。カソリック、イエズス会系の大学で創立は1789年です。イエズス会は世界中のあちこちに分け入りカソリックの布教に努め、それぞれの地で非常に実質的な活動をしていることから、元々pragmatism的な伝統を持っており、こうした活動目標のようなモットーを掲げたものと思われます。
Georgetown Universityの歴史を見ると、地理的に南部と北部の境界線に位置し、 独立戦争、特に、南北戦争時は、どうやら、学生は南軍(Confederate)と北軍(the Union)のどちらかに分かれて戦ったようです。戦後は“Both into One”という具体的な目標を掲げ、それを推奨するようなカリキュラムを編成したのではないでしょうか。本稿執筆中2020年12月1日現在、アメリカは2020年の大統領選で、Biden氏寄りのBlue StatesとTrump氏寄りのRed Statesに二分され、本稿が出る2021年1月20日に発足するBiden政権は、全ての分野で2分したアメリカを一つにする具体的な施策が求められます。アメリカの大学を含む全教育機関が“Both into One”を目指し“veritas(truth)”の“lux(light)”を輝かせ、世界中から学徒を集めるcollaborationの場となるよう祈ります。アメリカの大学の魅力と強みはそこにあるからです。 (2020年12月1日記)
後記(2024年4月18日記)
あれから4年が過ぎました。アメリカの大学は多くの問題を抱えています。混沌の中、世の光として真実を追い続ける最高学府であることを願いつつ。
(*13)上記全✓マーク項目=第98回記載Internet Encyclopedia of Philosophyの“Pragmatism”を参照。
(*14)第98回記載Internet Encyclopedia of Philosophyの“Pragmatism”を参照。
(*15)筆者は、Hawaii大学のMA in TESLで、Chomskyが唱える先天的言語能力(innateness hypothesis)に関し、デカルト的客観論に立脚しながら客観的証拠(evidence)がないと痛烈に批判するH. Putnamの‘The Innateness Hypothesis’ and Explanatory Models in Linguistics”と称する論文を読んだことがあります。Putnamは、ヒトが先天的に有するのはheuristic learning strategiesで、言語能力はその産物と主張しますが、議論はともあれ、Putnamに劣らずChomskyも具体的なempirical(実験的・体験的)証拠にこだわったことは確かで、それもpragmatismの影響では?と思うのです。
(*16)第98回Internet Encyclopedia of Philosophyの“Pragmatism”を参照。
(*17)この大学の創設時1785年またはその直後にこのmottoを掲げたと想定しての話です
(*18)慶應義塾のペンマークの校章、三田キャンパスの演説館は、“The pen is mightier than the sword”の象徴と学びました。このmottoに沿い筆者なりに起案し、実施したのが、research、presentation、discussion、debateを盛り込んだProject-based English Program (PEP)でした。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の福澤精神に則り、慶應義塾では教員も学生も「君」付け、よって、PEPでは教員も学生も同等に学び合うというスタンスを取りました。学生の関心事についてのプロジェクトからは学び事が多く筆者の言語学の研究に示唆を与えてくれました。筆者自身は長い人生体験かを持つ先達としてコメント、助言するという励まし役のfacilitatorに徹しました。PEPそのものが筆者自身のprojectで、未完のままlifelongに続きます。筆者現役中の1978年-2014までの暗中模索の歩みについてはいずれ詳細に特集します。
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