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セクシャリティ観のジェネギャ

最近、セクシャリティへの感覚に、20代ながらすでに純Z世代とのジェネレーションギャップを感じています。

それは「同性愛を否定される環境にいたことがあるかどうか」

「ノンケ」という壁

最近、Z世代の方の意見として「ノンケなのに…みたいなことをわざわざ描くBLどうして」みたいな書き込みをチラッと見ました。
私は、男女も百合もBLも嗜む者及び、制作する者です。
ただ、私には育った環境的に同性愛を否定されて育ったので、「相手がシスジェンダーかどうか」についてとても身構える傾向にあります。(育ちの環境については後述)

その方もおそらくシスではないのですが、それでも、わざわざ性別に壁をつけすぎていること、あたかも異性愛者なのに同性を好きになること自体に付加価値をつけるような表現何、といった疑問視でした。

実際どのような作品を読んでの感想なのかはわからないのですが、ただ、つぶやきの節々から見えてきたのは「育ちの環境でセクシャリティに寛容な家族と友人しかいなかった」ことでした。

私はまだ自分に対して「まだ間に合う、まだ異性を好きになる猶予はあるはずなのに」という、上記の「ノンケなのに」みたいなことを思ってしまう人間です。育ちの過程で刷り込んだことが抜けないので、他人の同性愛は応援するのに、自分の同性愛をまだ否定しようとする自分がいます。

「ノンケなのに」は付加価値ではなく、「こんなはずじゃなかったのに」という気持ちと、そんなことどうでも良く、相手のことが心から好きだという、心のぶつかり合いがあるのでは、と、シスになれなかった(あえてこう書いてます)当事者的にも思ってしまうのです。

同性愛に寛容に育った人は、否定されたことがある人の気持ちがあまりわからない。「どうしてそんな過剰にシスジェンダーとの壁を作るの?同じクィアなのにわかんない、そんなことしてるからいつまでも私たちはクィアって呼ばれるのよ」みたいな波動を感じてしまったのですが(もちろん独り言に過ぎないので、私が勝手にそのようなニュアンスで受け取ってるだけかもしれませんが)正直、セクシャリティ観に恵まれてた人の強者の感想だとは思ってしまいました。生理重くない人が生理重い人に「私も今日生理だけどこれだけやってるんですよ」の感覚にちょっと似てるというか(今時こんなこという人いないけど)

実際、二人で旅行や温泉等、寝泊まりや裸の付き合いのある同性の友達にカミングアウトする時は怖がらせないか(例えば泊まりの際も、付き合ってない男女は二人で泊まらない、それは、性愛対象内だから何が起きるかわからない、でもこれは片方が同性が性愛対象の場合も危機レベル的には同じなのではないかと思ってしまうため)心配するのですがZ世代には「考えたことなかった」という人もいました。Z世代、色々寛容すぎる…男女という枠組みも、同性異性という枠組みも、グラデーション的な感覚になっていることに気付かされました。Z世代にはジェンダーレスが日常なのだと。

でもクィア同士でもこれだけ感覚が違うと、「こうしたほうがシスジェンダーとの付き合いはうまくいく」と思う方法が180度違ったりする。
自分たちでクィアという殻に引きこもってるのでは何も変わらないよっていうZ世代的意見もわかるんですけど、やっぱり怖いものは怖い。
傷ついたことがある過去は変わらない。
でもこれもまた、古い考えになっていくのだろうか…シスジェンダーのご年配の方がアップデートを始めてセクシャリティについて寛容になってくれていく中で、私も傷ついたことは胸にしまって、まだまだ心の中に作ってしまってるシスかそうじゃないかの壁無くさないといけない。こんなのマジョリティ逆差別みたいな気持ちとほとんど同じだ、と思って、自分がイヤになる。こんな壁、壊さなきゃいけない日が来る、と思うようになりました。


補足:育ちの環境について
アラサーです。20代とはいえミレニアル世代に分類されます。
Z世代と何が違うかというと、自分用としてのガラケーを所有したことがある最後の世代。中学までは全員がガラケーという時代を過ごしているくらいの年代です。

スマホネイティブと何が違うかというとSNSの有無です。
地域の文化の中に、SNSという雑多な情報が入り混じらない、綺麗に言えば地域の伝統的な価値観、悪くいえば凝り固まった偏見。
めちゃくちゃ偏見が強い地域というわけではないですが、家族・親戚・近所の人は同性愛者及びトランスジェンダーについて「そっちの人」「気持ち悪い」と、頬に手の甲を当てながら揶揄するような表現が散見する中で育ったため、大変真面目だった私はそれを常識と信じて育ったり、子どもながらに口にしてはいけないことなのだとも思っていました。

結果、何が起きたかというと、「女は男の人と恋愛して結婚するのが普通」を強く自分の中に植えつけてしまい、女の子を好きになってしまう自分を否定する生活は続きました。途中、社会の教科書でジェンダーという単語に出会って自分で色々調べて「女の子らしくしなさい」と連呼する親の発言に違和感を感じるようになり反論すると喧嘩になるだけでした。現在はその偏見まみれだった両親も、私との度重なるジェンダー観の大喧嘩と世間の流れとともにアプデ完了し寛容になったのですが(すごいと思います)当時は、家庭内の教育者として、自分たちが正しいと学んできたものを私に理解させようとしていたのだろうと思います。

アインシュタインも「常識とは18歳までの偏見のコレクション」という名言を残していますが18歳まで育った環境で刷り込んだことを、ある意味否定してまで塗り替えるのは相当大変な作業で、価値観のアップデートには常に歪みがつきものだと思っています。今まで信じて道標にしてきたものは間違いだったような、裏切られたような気持ちになったり、守って生きてきたのに…というフラストレーションが発生したり。

大学進学とともに田舎を出て、10年近くかかって私はようやく、刷り込みから解放されるようになりました。カミングアウトする友達も増えて同性とか異性とか気にしないで「恋愛」という一括りの話題として同じテーブルで友達と盛り上がれるようになりました。それでもまだ深層心理で「異性愛者に戻らなきゃ、異性といつか結婚しなきゃ」という気持ちと戦っています(同性婚合法になれば解放されそうな予感がしている…)

終わりに
さらに私たちより先輩の世代の方はもっと傷ついてきたと思います。
私たちの世代ですら、「どうして先輩たちはこんなに用心深く同性愛を隠すのだろう」「どうしてこんな閉鎖的なコミュニティにするんだろう」と思うことがありました。私がZ世代と会話して先輩たちの気持ちが少しだけ、分かったような気がします。心の壁の厚みは、傷ついた回数、それから、これから傷つかないための予防線。

でもZ世代のフラットな感覚、生き方も大変、これからの社会の形になくてはならないものと思いました。
心の壁ばかり書く文章ですみません。
人を否定しないこととありのままの自分を認めることには相当な壁があります。
それから、私自身、いつか、シスジェンダーへの心の壁を無くしたいです。この壁がある限り、セクシャルマイノリティ/LGBTQというワードがあり続ける。
わざわざマイノリティだとか、LGBTQの区分けをしてるのは、今は恋を、家族観を、同一のものとしてみなさないから存在してる、存在しなくなる時、きっとそれは、Z世代たちのフラットな考えが当たり前になる時なのかなって、思ったりします。

吐き出しのため、乱文、それから、もし誰かを傷つけるようなことを書いていたらすみません。どこで誰が傷ついてしまうのかもわからない、気付けないことが、もう、認識の差だと思っています……。お許しください。

読んでくださりありがとうございました!長くなりましたが、世代間によるセクシャリティのジェネレーションギャップでした。

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