卓ジェネと家庭医療とわたし ー(元)家庭医療レジデントが読む『卓越したジェネラリスト診療入門』
COI:私は家庭医療レジデント(専攻医)として著者に指導を受けた立場にあるということを前提として共有しておきたい。
『卓越したジェネラリスト診療入門』略して卓ジェネ、を語ることは私にとって、自分の短い医師人生を語ることでもある。
いわゆるロスジェネ世代である私は、文系の大学で哲学や宗教などを学んだが、就職活動は思うように進まず、独学でWeb制作の技術を学び、派遣社員や契約社員、ベンチャー企業の社員などを経て独立し、最終的には自宅で自由に仕事をするようになった。そんな私がなぜ医師を志したのか?
「卓ジェネ」の感想を述べるにあたり、まず私自身の経歴に少しお付き合いいただきたい。
私が医師を志すに至った理由は複数あるが、その一つはある友人の経験にある。彼女はある日から原因不明の倦怠感に見舞われ、原因解明と治療を求めていくつもの病院を受診した。しかしいずれの病院でも、検査結果は正常であり、原因は不明で、したがって治療法もないという診断を繰り返されるばかりだった。このような、医学的に原因が解明できない身体症状、すなわちMedically Unexplained Symptom(MUS)に対して、現状の医学的観点からは何も治療法がないと断じられた経験によって、彼女は深い失望と医療への不信感を抱くことになった。医師から見放されたと感じた彼女は、子どもの頃から自分の身体に意識を集中すると、症状が改善した経験を思い出した。彼女は現代医学と訣別して自らを癒やす道を選び、いわゆる補完代替医療(CAM)のセラピストとなった。傷ついた彼女は、まさに自分を癒やすためにヒーラーとなったのである。
この友人の経験を通じて、私は彼女の施すセラピーそのものに関心を持つというよりも、「自分ならば違う医師になれるのではないか」と漠然と考えるようになった。医師と一般の患者との間に存在する思考の乖離を埋め、精神と身体の双方に関わることができる医師、一般の人々の立場に立つことができる医師になりたいと思うようになった。
もう一つ、医師を志した理由の一つに、大学で学んだことをあきらめきれなかったことがある。大学では、ドゥルーズなどのフランス哲学、ラカンやフロイトの精神分析、レヴィ=ストロースの人類学、西田幾多郎の哲学、キリスト教思想やチベット仏教などを幅広く学び、それはそれは楽しかった。もう一度あの知的興奮を味わいたいという思いが、ずっと頭の片隅に残り、一人で仕事をするようになってから、その思いが徐々に大きくなっていった。しかし研究で身を立てる能力も時間も根気も、自分には不足していることを私はおそれた。そして趣味として一人で勉強を続けることにも限界を感じていた。哲学的な思索は、Web制作の仕事とあまりにかけ離れており、抽象的な論理展開を独学で深めるのは難しく、単なる机上の論理になりかねない。考えるための材料や、実践に活かす場が不足していた。
今の私にできることは何か?研究で生計を立てることはできなくても、哲学的な概念を実践に活かし、それをもとに思考を深めていくことはできるのではないか?そしてその実践の場は、医師しかない、と私は確信した。
医学部時代、もともと精神分析の本などを読んでいた私は、哲学ともっとも近い精神科に強い興味を持ちながらも、身体をないがしろにすることになるのではないか、という考えに囚われていた。身体と精神は不可分なものであり、両方に関わりたいと思っていた。また、精神疾患を抱える患者だけでなく、もっと自分の生活に近い、広い範囲で一般の人々とも関わりたいと考えていた。しかし医学部では、基本的には臓器別の疾患を中心に学び、臓器専門の医師が講義を行う。医師は患者の病気を治すのが仕事であり、患者の個別性や生活に配慮した医療について学ぶ機会はほとんどなかった。そうした専門分化された医学教育の中で、患者の個別性はともかく、全身を診ることができる診療科として総合診療科に関心を持ち、その勉強会に参加して診断や治療について学んだ。また、一つの臓器だけではなく、全身を診る必要のある膠原病科にも興味を持つようになった。総合診療科に出入りを始めてから、医局にあった医学書院の「総合診療」という雑誌に目を通すようになった。とくに「55歳からの家庭医療」という、医学雑誌としては異色の連載には強く心を惹かれ、特集に興味を持てなくても、その連載を読むために雑誌を手にとるようになった。
医学部を卒業し、2018年4月に初期研修を開始した私は、連載「55歳からの家庭医療」の『「病い」へのアプローチ』の回を読み、大きな衝撃を受けた。特に、2018年6月号掲載の『「病い」へのアプローチ5』は決定的だった。これまで学んできたスピノザや現象学などの哲学的概念が、医療の実践とどう結びつくのか、ずっと模索してきたが、その具体的な方法がそこに示されていた。患者を「ある疾患を抱えた人口集団の中の一員」としてではなく、「個別の自己/主体性を持つ人物person」として捉える視点、BioPsychoSocial(生物・心理・社会的モデル)に留まらない、総合的に人間を診る視座がそこに展開されていた。私の目指した医師像には、生物学的知識だけではなく、人文領域の知恵との接続がやはり有効なのだ。
初期研修修了後、私は家庭医療学開発センター(CFMD)の家庭医療・総合診療専攻医となり、本書の著者である藤沼康樹先生から直接指導を受ける機会を得た。その指導内容は、この本の中にほぼすべて含まれていると言ってもよいだろう。本書はサブカルなどのキャッチーな話題と、理論的なバックグラウンドの絶妙なバランスを保っている。日常の臨床経験は、著者の豊富な医学的知識と、膨大な人文学的教養を背景にした洞察によって言語化され、一般人にも腑に落ちる理論に変換される。本書は、診療のノウハウやフレームワーク、理論を伝える医師向けの医学書でありながら、医学の中でいちばん患者に近いとも言える家庭医療の書であり、一般の人々にも訴求力のある内容になっているのではないだろうか。医学的アプローチが行き詰まった場合の施策(MUS、未文化な健康問題)、複数の疾患を抱える高齢者にどのような診療を行えばよいのか(多疾患併存、下降期慢性疾患)、患者に陰性感情を持つ意味とは?(複雑困難事例)、医学部でほとんど触れられないが、日常的に遭遇する困難な場面で、医師としてどのように対峙すればよいのか。こうした問題に対して、あまりに還元主義的に、科学化され、専門分化した医療は、なすすべを持たない。こうした専門分化された医療に対するカウンターとして、身体化された自己/主体を対象とした「卓越したジェネラリズム診療」が展開されている。
冒頭の友人が求めていた医師の姿が確かにここに存在している。