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母が死んだ
母は12年前にアルツハイマー型認知症と診断され、徐々に脳の機能が失われ、ついに食べるという本能さえ損なわれて亡くなった。
母は特に社会的に意味のある仕事をしたわけでもなく、一般家庭の専業主婦だった。これは母に対する追悼であると同時に、母と自分の人生を、こうとしてしか生きられなかった、と受容するための物語である。
母は、物理学の研究者だった祖父と、結婚後に書道を始め、後に書家となる祖母の間に生まれた。団塊の世代だった。姉がいたが、幼い頃に亡くなり、ほぼ一人っ子と言ってよいだろう。北大に職を得た祖父は、娘にグランドピアノを買い与えた。娘にピアノを弾かせたいという祖父の幻想に従い、中学卒業後、単身東京に引っ越し、一年の浪人生活を経て、音楽大学附属高校に入学し、そのまま大学に進んだ。最終学年には友人とのリサイタルも開いたが、卒業後は音楽で身をたてることを許さなかった祖父の意向に従い、中学校で数年間音楽教師を務めたのち、父との結婚を機に家庭に入った。その当時は、同級生も、留学したり音楽の道を進むものはごく一部で、多くは実家に戻り、家事手伝いや実家での音楽教師になっていたと想像できる。音楽大学は高級な花嫁修行の一つとも捉えられていた。
祖母はわがままで自分の思ったとおりに人を動かそうとする傾向があり,孫であるわたしや妹にさえときどき癇癪を爆発させる人だった。一人っこの母はそれに幼い頃から振り回されてきたのだろう。たびたび母は祖母に対する嫌悪を顕にしたが、祖父母の家に同居しており、決して祖母の元から離れていこうとはしなかった。一時はピアノにすべてを捧げたのに、いまは自宅で近所の子どもにピアノを教えるだけで、音楽を続けさせてくれなかった両親に対し、母は常に恨みを漏らしていた。自分が音楽の道に進めなかったのはなぜか祖母のせいとなっていた。母は自分の夢をわたしと妹に投影した。幼い頃からピアノの英才教育を開始されたわたしたちは、母の運転する軽自動車に乗って、多摩の片田舎から世田谷にあるピアノの先生の住むお屋敷に連れて行かれ、楽しいとは程遠いピアノ指導を受けた。さらに母は帰ってから毎日のピアノ練習の指導を自分で行い、それは体罰を伴うものだった。当時、ピアノだけでなく、教師が背中を手で叩いたり、定規で打つのは当たり前の指導だった。そうした毎日に嫌気がさしていたわたしは、母やピアノの先生の地獄の指導から逃れるために、バイオリンをやりたいと言ってピアノからバイオリンに鞍替えし、やがてバイオリンもやめた。母はバイオリンのことはよくわからなかったので、わたしがあまり練習しなくても口うるさくは言わなかった。その時母の矛先はすでに、逃げ遅れてピアノを続けていた妹の方に向かっていた。
思春期になり、反抗期に入ったわたしに、母は「普通でいなさい」「みんながやっていることをしなさい」とたびたび叱るようになった。母から飛び出てくるそうした限りなく命令に近い発言を聞くたびに、どうしてそうしなければならないのか、理由を問い詰めても、母からは「みんながやっているから」というまったく納得できない言葉しか返ってこなかった。それにわたしは怒り、反抗し、ついに自分で考えることをせず、価値基準を一般常識や「みんな」にしか置けない母を見下すようになった。
母はなぜ、自分が選んだ音楽の道を進まず、諾々と両親の言いつけを守って専業主婦をやっているのか?父は自分の会社を立ち上げ、社会的に意味のある仕事をしているのに、母はなぜ誰にも評価されない家事をし、文句を言いながらその場に留まりつづけるのか?母は恨みを言うだけで、自分で努力してピアノの練習をつづけたり、状況を変えるための活動をすることはなかった。わたしは自分が母のようになることに強い嫌悪感を覚えた。自分がやりたいことを我慢し、家族の世話をする母親。家族のために尽くしているのに、父に見下されている母。わたしが子供の頃、未だ女性は家庭に入り、子供を産み育てるのが当たり前で、仕事を続ける女性は非常に少なかった。女性は、子どもの頃は優秀だが、すぐに男性に抜かれる劣った存在である、という固定観念が根強かった。
「女」と印づけられるもの、ケアをする者としてみなされることに対する嫌悪感。
自分が男ではないことに対する怒り。
男性と女性の違いの一つは、自分の性について、自分が「女性である」ということについて思い知らされる時間、それについて考える深さではないか。
常に有徴であること。「女性である」というだけでまとってしまう意味。
わたしは全力で母を振り払った。自分は母のようにはならない。自分がやりたいと思ったこと、自分が正しいと思うことは、周りに何を言われようと曲げないと誓った。他者におもねり、親が望む通りに生きたとしても、自分の人生の責任を取るのは自分でしかない。他者の言う通りに生きてそれを恨む人生は歩みたくなかった。たとえ失敗しても、自分で選んだものなら、納得できると考えた。
ニーチェを読んだわたしは、母の持つ感情をルサンチマンと呼ぶことを知った。わたしはルサンチマンは持ちたくない。わたしはスカートを履くことをやめた。誰かを陰で支える人生ではなく、自分が主役の人生を歩みたいと思ったわたしは「父の娘」になろうとした。
中学生、高校生になると、周囲は恋愛に色めき立ち、誰がかっこいいとか、誰と誰が付き合うとかそういう話に覆われるようになった。そして女子は今までバカにしていた男子の陰に隠れるようになり、クラスや部活の役職に就くのはほとんど男子となっていた。女子は一歩ひいて男子を支えるのがまだ美徳とされていた時代である。そうした光景にもわたしは苛立った。どうして優秀な女子がリーダーにならないのか?それを望む女子はほとんどいなかった。クラスの女子は、母のようになりたいと思っているのか?わたしは納得できなかった。そして、そうした女性たちは、人の言うことに影響を受け、自分の言っていることをすぐ変えるのである。
結局わたしは、母が象徴するものに対する反抗を糧に生きてきたのかもしれない。母が押し付けてくる世間的な一般常識、慣習に対して、全力で抗ってきた。自分は母のようにはならないと決意していたが、しかし母のようなものを自分は外に求めていた。母のような存在が必要であることは否定できなかった。自分は男性になりたいのか?違う。しかし女性にもなりたくなかった。母という存在を、男性のみが享受している不平等。
今考えると、それはギリガンのいう「正義の倫理」と「ケアの倫理」の対立であった(1)。わたしは「正義の倫理」を自分の倫理として採用することに決めたが、「ケアの倫理」の重要性を捨て去ることができなかった。あんなに苛立ちを覚える母や女友達のことがわたしは大好きであった。彼女たちは、人々の間の関係性に気を配り、自分のことは二の次にするべきだと考えていた。ケアは必要なもので、価値の高いものであるのに、それはまったく社会的に評価されていなかった。
レヴィナスは、家に住み着くことで自我が基礎付けられるとし、家の中に引きこもることによって他のものから隔離され、私という自我が確立するという。家の中には、女性的な他者が、光から逃れ、自分が奥に退くことでスペースをあけ、わたしを歓待する。家の中は親密なスペースであり、エロス的なもので満ちている。後に退くことを本質とする、女性的なものに譲ってもらったことを奇貨として、男性的な主体は「わたしはここにいます」と真っ先に責任をとるものだという。フェミニストに批判されたというこのテキストは、男性にも女性にも内在しうる、男性的要素と女性的要素を指していると、内田樹氏は言う(2)。
月並みな言葉を許してもらえれば、「母」というケアの役割を担うというだけで母は偉大なのである。しかし女性的なものは、光の当たらない奥に退いてしまうという性質から、男性的な原理を基盤とする社会では評価することが難しい。
ただわたしは悔しかったのだ。母や女性が重要な仕事をしているのに、社会的に貶められており、その仕事が十分に価値されていないことが。母や女性にも責任を持って、光の当たる社会の中で活躍して欲しかったし、男性にも一歩引いて他者との関係性に気を配る、ケアの倫理を体得してほしかった。
社会はわたしが子供の頃と大きく変わり、未だ不十分ながらフェミニズムが浸透し、ケアの倫理の価値も大きく向上している。母やわたしが、もっと後の世代に生まれていたら、違うように生きていたのだろうか。
ショパンの幻想即興曲は、母がいつも弾いていた曲である。それを聞くと、母の過ごしてきた人生の過程、歴史を思い返さずにはいられない。最期は意思疎通できなかった母にも人生が確かにあった。
母は音楽に本当に没頭していたのは短い時間だった。自分の一生の仕事としては選ばなかったが、ピアノを弾くことに快楽は感じていた。認知症と診断された初期の頃は、リハビリのためにもピアノを弾くように勧められ、一人でショパンをよく弾いていた。しかし認知症が進行するに連れ、それも次第にしなくなり、今までできていた家事をうまくこなせない母に、同居していた父や妹は辛くあたった。実家から離れて暮らしていたわたしは、家事ができなくなっていく母と、それを咎める家族を見ていることが辛く、次第に実家から足が遠のいた。それは、母が妹に折檻を加えてピアノを練習させている横で、知らないふりをして本を読む子供の頃を思い出させた。やがて母は、祖母が入所していた施設に入り、祖母の死の4年後、亡くなった。
母が亡くなった時、いつも感情を表さない父が、母の頭を労うようにそっと撫でた。父は母を愛していたのだ、と知った。この二人は、親密な家を確かにつくりあげていたのだ。
わたしは、ケアの倫理と、正義の倫理を統合することができるだろうか?
キャロル・ギリガン. もうひとつの声で──心理学の理論とケアの倫理. 風行社; 2022.
内田樹. レヴィナスと愛の現象学. せりか書房; 2001.