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「慈悲」とゾーエー 医療におけるマインドフルネスについて
思春期の時期のわたしは、だれでもそうであるように、自己を確立する過程で世界に対する疎外感を感じていた。さらに自分のマイノリティ性を自覚して、この世界に自分の居場所がないように感じていた。しかしわたしはこの世界に生きていかなければならず、浪人時代にはその閉塞感から絶望の淵に立っているようだった。しかし、立花ハジメのイラストが描かれた赤い本の装丁に惹かれ、図書館でたまたま手に取った中沢新一『雪片曲線論』を読んで衝撃を受けた。今の現実とは異なる世界、というか異なる見方の可能性を知ることで、わたしは救われた、と感じた。この本には、わたしの生きる現実の中では捉えられない「リアルな」ものが存在することが書かれていたのだ。わたしは氏のその他の著作にも没頭し、進路を変えた。
『精神の考古学』 リアリティの探求 慈悲
昨年(2024年)出版された『精神の考古学』は、中沢氏が、チベットの原始密教の精神過程と技法である「ゾクチェン」を探求するその過程について、40年の時を経て初めて記したものである。著者は、古代的な体系であるゾクチェンを学ぶことによって、言語構造にも象徴にもよらない、「裸」の状態にある精神(心)というものにたどり着きたかった、という。はじめは現代思想の中にこうした精神を探求していた著者は、事実の世界の中にそれを探求するという転回を行った。
農業革命以前の、古代の世界では、複雑な仕組みの親族構造を持ち、秩序をつくりだす「神」ではなく自由な流動体である「精霊」を崇拝し、人と動物のあいだに並行関係が存在する。人と事物は切り離すことができず、商品の交換ではなく、贈与と反対贈与(返礼)がある。贈与のサイクルの中では増殖が起きず、精霊の力によって循環が起こっている。非象徴、非交換、非増殖を原理とする世界に、吉本隆明はネガティブな意味で「アフリカ的段階」という名前をつけた。その後、新石器革命によって農業や街、象徴的な「神」が誕生する「アジア的段階」へ移行する。底では価値としての穀物が増殖し、商品が交換される資本主義社会がはじまる。
象徴まみれの現代社会において、非象徴、非交換、非増殖のアフリカ的段階にあるゾクチェンを求めて、著者は旅を始めた。
ネパールで無事ゾクチェンの師に出会うことができた著者は、心がどこからやってくるのかを見つめ、自然の中で各種のヨーガや、暗闇の中で瞑想を行い、次第にゾクチェンを体得していく。
ヤンティ・ナクポのムンツァム(暗黒瞑想)では、真っ暗でほんとうになにも見えない部屋にこもり、自分の内部から出現する光景を「見る」瞑想である。7日間の瞑想を終えた筆者は、小屋の外に出て、数個のトカゲの卵が朝日を受けて光っているところを見る。
私は言いしれぬ感動に襲われて、涙を流してしまった。私はそのとき、このトカゲの卵たちと自分が同一の生命であり、生命は根源において光であり、また光は法界から放たれるリクパの運動にほかならず、トカゲの卵と私は根源において同一の法界の波動に属しているという認識に、いたく感動していたのである。
そこで見えてくるのは、あらゆる生き物や自然との同化である「慈悲」の概念であり、ここから利他の精神も生まれる。「ゾクチェンはこの根源的同化を、偶然によるのではないやり方で確実に体験させるためのひとつの体系をつくりあげてきた。」
しかし、必ずしもこの体験は修行や瞑想によらず、ふだんの生活の中で偶然に体験されることもある。著者はルソーが散歩の途中で転倒し、意識を失ったあと、意識が回復する過程で感じた、周囲の木々や鳥などの存在との一体感を例に挙げている。
木村敏ーヴァイツゼッカーのビオス/ゾーエー
わたしはここで木村敏の生命の根拠関係やビオスとゾーエーの概念との類似性について考えてみたい。
ニーチェはギリシア悲劇の真髄を、「個別化の原理である「アポロン的なもの」と、自然の根底から湧き上がる歓喜と陶酔のなかで個別化を解体する原理である「ディオニューソス的なもの」という、二つの対立する契機のあいだの緊張関係に見て取った。」(4)それを受けてケレーニーは、個別化された特定の生である「ビオス」と、特別な限定のない、生一般である「ゾーエー」というギリシア語の二つの単語に注目する。木村氏によると、ニーチェが「ディオニュソス的」と呼んだのはこの野生の「個別以前」「自己以前」の生命の動きであり、ディオニューソスこそゾーエーの化身にほかならない。ビオスは生一般であるゾーエーから生まれるものであり、根源的生であるゾーエーに帰るという「死」を含んだものである。ニーチェが「ディオニュソス的」と呼んだのはこの野生の「個別以前」「自己以前」の生命の動きほかならない。
木村氏は人間だけでなく動物や植物、ウイルスや細菌までも生きる主体=ビオスとして捉えた。そこには非人間中心主義的な考え方が示されており、この考え方は、木村ーヴァイツゼッカーの考える「主体」の概念から自然と導き出される。
木村ーヴァイツゼカーの主体は、生きものと、その周囲の環境世界との接触現象そのもの、「あいだ」の現象であると定義されており、この主体の概念では、従来の主観・主体概念と異なって、人間の意識や理性を前提としていない。この主体は定義上、人間だけでなく、動物や植物、ウイルスなど個体としての生を保つ存在すべてが含まれることになる。
木村氏の言うゾーエーは、ゾクチェンまたは仏教で言うあらゆる生き物や自然との根源的同化、「縁起」や「慈悲」の感覚に直結している。周囲の世界と個別的生であるビオスの「あいだ」にうまれる主体は、意識も自律性も問わないものである。
また、木村氏は「自己の二重性」に言及している。
わたしは固有の歴史(木村氏は生活史 biographyと呼ぶ)を持ち、交換不可能な個別的な生=ビオスとして生きているが、一方で、戦争や災害などの非常時、集団的なスポーツやゲームに熱狂的になったとき、あるいは祝祭の狂乱状態、恋人たちの性的な没入状態のとき、大きな生命の中の没個別性的な一人として、交換可能な生としても存在する。これがゾーエーである。この二つの生はどちらも事実であり、同時に存在しうる。
自分がいずれ死ぬ、交換可能な生の一つにしか過ぎない、という自覚は、ふだんの日常生活でビオスとして生きるわたしたちにはおそろしいものである。それは自らの死=消滅に直結する。だからこそ、ゾーエーに触れた者(瞑想を行う修行者や宗教者)は、日常というビオスに戻る必要がある、ゾーエーとビオスの往還を行うことで、ビオスとして日常生活にゾーエーの存在を知らしめる。
ゾーエーのこうした不気味さ、死の匂いから自由になったのが、近代社会と言えるかもしれない。そこでは、死は医療の中に管理されたものになり、自分の食べている肉を捌く過程は慎重に隠されている。人々はゾーエーの存在を忘れ、ビオスとしての生を謳歌しているように見える。しかし、いずれ人は死ぬ事実は変わらず、ビオスはいつかゾーエーに還る。
中沢氏が言及する古代の社会には、社会の規約や慣習があり、その社会は必ずしも生きやすいものではなかった。例えば、贈与や返礼の義務、女性の交換といった制度は、現代社会では受け入れがたいものだ。自由に、ビオスとして生きやすくなった現代では、女性が自分の意志と関係なく交換されることはなく、家業を継ぐことは強制されず、住む場所を自由に選ぶことができ、子どもを産まない選択ができる。マイノリティにやさしくなり、都市部では他人に従属せずに一人で生きていくことができる。確実に世の中は生きやすくなっていて、わたしたちはその恩恵を十分すぎるほど享受している。
しかし、バランスを欠いていることは確かだ。ゾーエーや自然に対する配慮を欠いた近代社会は、環境破壊を繰り返し、価値の無制限の増殖により貧富の差は拡大している。 わたしたちはどのように、この世界に安全な形でゾーエーや原初的知性の働きを再び導入することができるのか?
医療におけるゾーエー マインドフルネスとpresence
医療において、どのような試みが可能なのか、この本にヒントがあるように思う。Ronald Epstein『マインドフル・プラクティス 医療を支えるマインドフルネス―ある臨床家の実践』(8)は米国で家庭医療・緩和ケアに携わる著者が、医療におけるマインドフルネスについて書いた本である。マインドフルネスとは、「いま・この瞬間の自分自身、他者、状況に注意を向ける(全集中する)こと」であると序文に述べられている。本書の原題は”Attending: Medicine, Mindfulness, and Humanity”であり、attendingについては「姿を見せ、”いま・ここ”に意識を集中し、患者の声を傾聴して、大事なときに患者のそばにいることである。また、アテンドすることは、道義的な義務でもある。意識を集中させることで、医療者は最善のケアを提供するだけでなく、患者一人ひとりの人間性を尊重することにもなるからだ。」Attendingには注意を向け、そこに意識を集中させる、という意味だけでなく、実際に患者の前に姿を見せ、存在するというPresenceとも言い換えられる意味も含まれている。
Epsteinによると、Presenceは「いま」という時間と、「ここ」に空間をつくる、という二つの意味がある。医師の心が「いま・ここ」にあるとき、患者は医師との一体感を感じ、時間が止まったように感じるという。それをEpsteinは、ジャズコンサート、あるいはマーティン・ルーサー・キングやマハトマ・ガンジーの演説を聞くときに例える。その場の聴衆全員が同じ親密さとつながりを共有し、聴衆が一体となり、時間が止まって空間が拡がったような感覚になる。このような没入感の中にいるとき、わたしたちの自我は消滅し、心のプロセスを共有する。この状態のpresenceは、いわば「間主観的」であり、わたしとあなたの境界は曖昧になる。Epsteinにとってpresenceの実践とは、自分自身にとって、そして他者にとって、私が”利用可能”な状態になる、ということである。自分のなかに他者のためのスペースをあける、それが他者と共にあるpresenceの実践である。わたしと似た相手にはpresenceを共有しやすいが、異なるアイデンティティを持つ他者との共有は難しい。ここで「他人の靴を履く(ブレイディみかこ)」empathyが重要となる。他者と全く同じになるのではなく、違いを認めながらも他者の立場に立って想像してみること。
診察における医師と患者の境界や時間感覚の喪失、ジャズコンサートにおける聴衆の一体感は、まさにゾーエーにつながるものと言えるだろう。わたしたち医療者は一人ひとりの患者を診察し、その人の健康やwell-beingを追求するというビオスの文脈で診療を行う。しかし診療の重要な要素であるpresenceは、empathyや慈悲心によって患者と「共にある」状態を創出することであり、根源的同化、つまりゾーエーがその基盤にあるのではないか。
同様のことが、家庭医療の基本的文献である、Ian McWhinney, Thomas Freeman” Textbook of family medicine”(9)にも取り上げられている。
McWhinneyとFreemanは、癒やすもの、ヒーラーとしての医師の条件として、マインドフルネスに触れている。そして、患者が必要とするときにそこにいるために、献身(commitment)と関与(involvement)が必要であると言う。そして関与について、「『癒やす』関与とは何か」、「感情的関与の落とし穴をどうやって避けるか」の二つに分けて説明している。まず癒やす関与とは、attentionとpresenceのことである。その例として、Needlemanの書籍から、子供の頃、医師である伯父が診察中に、診察室のドアを通り過ぎたときのエピソードを挙げている。少年は伯父と目が合ったと思ったが、伯父は眼の前の患者に集中し、いつものように笑いかけてくれることはなかった。少年よりも患者を優先したことを、Needlemanは「非利己的な、個人の感情を出さない愛」の表明と表現した。そしてもう一つの例として、McWhinneyが医学生だったときのエピソードが紹介されている。地域病院で外科医と回診していたとき、救貧院から来た高齢の浮浪者に対し、外科医はその瞬間その患者が外科医にとってもっとも重要な人物であるかのように、注意力をすべて彼に向けて診察した。その時その医師は、患者の人生のなかにまさに存在していた(presence)。しかその患者の診察が終わると、外科医は次の患者に同様に専念していたのである。この医師は、関与する(involvement)と同時に距離を置いていた(detached)と言える。つまり、involvementとは、けっして感情的に共感compassionすることではなく、距離を保ちつつ、他者の中に入っていく、つまり「他人の靴を履く」empathyのことと言えるだろう。そして、落とし穴とは、診療に自らの利己的な感情(転移や逆転移を含む)が交じることである。この落とし穴を避けるためには、患者に向けるattentionと同じものを自分に向け、自分の感情を自覚することが必要となる。感情を否定したり止めるのではなく、観察すること。つまりこれが自己を観照するマインドフルネスなのである。
現代社会における死とは
近代化が進んだ現代社会においては、こうした裸の状態にある精神に触れることは難しい。精神の深い部分まで降りた修行者は、世間に帰ってきてそのエッセンスを伝えることができるが、そうした人物もほとんどみられない。しかし古代の社会を残した部分を、この世界の秘境で見つける、ということも年々むずかしくなり、ごく限られた人しかなしえないことである。しかし、死は必ず誰にでもやってくるものであり、その事実は社会がいかに変わろうと、変化するものではない。
チベット密教では、死を乗り越えるのではなく、死と和解するための修行というものがある。「ポワ」という、忌々しい事件によって間違った意味で広まってしまったこの言葉は、死と和解するための、意識を体から抜いていくテクニックのことを指す。ポワにはいくつか種類があるが、「凡夫のポワ」と呼ばれているテクニックは、修行する時間のない一般人でも行えるものとして、チベットでは普及しているという。一般の老人が、日常的に、死に備えてポワを行うのである。死の瞬間にポワを行うことで、不幸な輪廻から逃れ、阿弥陀仏の浄土に行くことができると信じられている。ポワを行っている人は、死に対する理解が進んでいるため、自信を持って死ぬことができる。しかし行えないものは、死とはなにかがわからず、死に対する恐怖心がつのる。このように、チベットの人たちは生の中に死を位置づける工夫を行っていた。
こうしたことが、現代でも可能だろうか。わたしたちの社会は近代化が進み、寿命も延びたとはいえ、死はかならず訪れる。しかしそれに対する準備というものはないに等しい。死は現代社会に残された数少ない野生とも言える。
現代の日本で死に一番近い者、それは医療者である。医療者はシャーマンやチベット密教の修行者のように、ポワを行ったり、あの世とこの世の往還を行うことはできないが、死に立ち会うことはできる。修行者やシャーマンなどの特別なものとしてではなく、普通の人として死に向かう患者にいかに伴走するのか。
ブルーノ・ラトゥールらのアクターネットワーク論には、そのヒントがあるのではないか、と考えている。(つづく)
参考文献
中沢新一. 雪片曲線論. 青土社; 1985.
中沢新一. 精神の考古学. 新潮社; 2024.
木村敏. 心の病理を考える. 岩波書店; 1994.
木村敏. 関係としての自己. みすず書房; 2005.
木村敏. あいだと生命:臨床哲学論文集. 大阪: 創元社; 2014.
木村敏. からだ・こころ・生命. 講談社; 2015.
清水健信. 木村敏のビオス・ゾーエー概念について - アガンベンとの比較から. 医学哲学 医学倫理. 2020;38:41–7.
マインドフル・プラクティス - 医療を支えるマインドフルネス-ある臨床家の実践 -. メディカル・サイエンス・インターナショナル; 2023.
McWhinney IR, Freeman T. Textbook of Family Medicine. 第3版. Cary: Oxford University Press, U.S.A.; 2009. 472 p.(R.McWhinney I, Freeman T. マクウィニ-家庭医療学. ぱーそん書房; 2013.)