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チャイルド・プレイ(2019):創作に辻褄や整合性は必要か

小学四年生くらいの時に笠山君の家で観た初代の「チャイルド・プレイ」はムチャクチャに恐ろしかった。プレゼントされた人形に連続殺人鬼の魂が乗り移ってる、というのも物凄く理不尽に思えたし、やはりチャッキーのモノとして存在してる感じがやけに生々しくて、それがとても恐ろしかったように思う。特に精神科だかのクリニックで主人公が窓から見下ろした時に、非常階段をヨチヨチ登ってくるチャッキーを引きで捉えたカットは衝撃だった。このカットによって、画面に展開されるシーンの外側でもチャッキーはいつも追いかけてきているのだと妙に実感させられてしまって、笠山君の家から夕暮れに自転車で帰りながらも、どこかにチャッキーの背中を見かけはしないかとビクビクしていた記憶がある。

勿論、子供だったということと思い出補正のバフがかかっていることは否めないが。


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それに比べて本作はチャッキーが暴走する理由もテクノロジー由来のリファインがされていて、映像も綺麗に処理されて色々な部分の辻褄も合うように作られているのだが、いかんせん面白くない。特にチャッキーに微妙に悲哀を持たせた変更点は、その視点での掘り下げも浅かったし理不尽さを薄れさせただけで、改悪としか思えなかった。漫画でたった30頁ほどの楳図かずおの『ねがい』の方が、この方向性ではよほど深かったように思う。

唯一面白かったところと言えば、太った管理人が熱々の鉄棒にぶら下がって、作業台からちょっと歯が出てる電ノコの上に落ちて死んじゃうところくらいか。


楳図かずお『ねがい』(1975)


きちんとリファインされたのに、なぜ面白くなくなったのか?映画に必要なものとは何か?創作に最も必要なものとは一体何なのか?


これだけ現実とフィクションの境が曖昧になる、というかもっと言えば各々の「現実」もフィクションの一つの様体に過ぎないことがバレバレになった現代で、我々人類一般の、フィクションと戯れる技術は確かに比類なく高まっていると思う。映像表現に限らず、どんなメディアを見たって気の利いた処理やエフェクト、伏線回収に満ち満ちている。そらもう大したもんですよ。死ぬほどに、理解できないほどにつまんないものには滅多に出会わなくなった。退屈しなくて良い世の中になりましたね。Web2.0さまさまです。


しかし、しかし創作というものは、そのような技術だけあれば成り立つのだろうか。我々の心を最も動かすのは、洗練された技術そのものなのか?

私はそうは思わない。私は創作に触れる喜びとは、人間のどうしても折り合いをつけることができないもの、自分でもコントロールできないような衝動をその核心に感じ取ることだと思っている。本作にはそういった、創作の原動力となるようなエネルギーを全く感じることができなかった。多少辻褄が合わなかろうと、分裂気味であろうと、私は創作においては、この論理に回収されない原初的な衝動の持つ力がこの上なく重要だと思う。


手元のデバイスがあればちょっとした退屈から自尊心や性欲まで、すべてを慰撫されるようになってしまって、我々は自分自身と向き合う時間が根本的に足りなくなっているのではないか。いやしくも何かを創り出したいと願うならば、小手先の処理技術を学ぶよりも、まずは徹底的に自分自身に向き合う必要があると思う。インターネットばっかりやってんじゃねぇ!!
『カネやんこと金田正一投手が、何故400勝という偉大な記録を打ち立てることができたのか…それは、当然、インターネットをやってなかったからだ!!!!』とは掟ポルシェの言。


まぁやいのやいの言いましたが、結局何が一番怖いかと言うと、ティーン向けホラー映画のレビューで創作についてくどくど語ってる自分が一番怖い。あとは、熱いお茶が一杯怖い。
へぇ、おあとがよろしいようで。

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