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ほそくて小さなさつまいもと、幸せ

 朝、しばらくぶりに中学、高校と仲良くしていた友達Yちゃんから連絡があり、お母様がな亡くなられた、とのことだった。
化粧する手がふと止まり、芸人やらタレントやらが面白おかしくゲームをしているテレビ画面が滲む。

 もう何十年と会っていない人だというのに、蘇る鮮明な記憶と光速で心に近づく悲しみと衝撃。で、ふと思うのだ。Yちゃんのお母さんは、しあわせだったかなぁ、しあわせと思う瞬間がいっぱい溢れていたかなぁと。

 この、お母様を亡くした友達のYちゃんは10代の頃に進学で地元を後にし、そのまま行った先の男性と結婚。今もその地で暮らしている。私はあちこちを転々とした挙句、結婚を機に生まれ育った土地に戻ったのだけど、そのあいだ、私は行方不明扱いとなっていた。そうなった理由は、住んでいた家に急に住めなくなって夜逃げをしたことで行方がわからなくなっていたのだけど、Yちゃんは同級生の中で唯一、私を必死で探してくれた人だった。

 それから、会えなくても互いの誕生日とお正月は連絡を取り合う仲で、数行のメッセージから、元気でやっていることや、亡くなったお母様の様子も聞いていた。

 Yちゃんに私は大きな借りがある。
 中学から高校時代、とある出版社の新人賞にせっせと書いた小説を送っていたのだが、それら作品を一番最初に読んでくれていたのがYちゃんだった。拙い文字に文章。当時は原稿用紙にワープロで打っていて、非常に読みにくい原稿だったと思うが、それを嫌がることもなく読んでくれ、読み終わると学校帰りに私の家にやってきては感想を聞かせてくれた。400字詰めの原稿用紙100枚程度の原稿の束を持って、家の窓から見える坂道をえっちらおっちら歩く彼女の姿は、今でも覚えている。

 Yちゃんは当時、市営の団地に住んでいて、近くの工場で働くお母さんとの二人暮らしだった。当時はシングルマザーなんていう言葉はなく、お父さんのいない片親の子、という括りで周りから見られていたようだ。ようだ、というのは、私は当時から頭がどこか抜けていたから、片親の子という言葉も見る目もなくて、ただ、頭の良い、数学の問題を教えてくれる優しいお友達だった。

 そんな私もいつしか彼女と同じ、片親の子となった。その辛さやら苦しさをYちゃんに話した記憶はないのだけど、もしかしたら、私の様子や態度からYちゃんは感じ取っていたのかもしれない。
 それは、亡くなったYちゃんのお母さんもそうだった。

 あれは高校一年の秋頃だったろうか。
 夜、彼女の家に遊びに行き夕飯をご馳走になった時がある。なぜ、そんなことになったのかは全く覚えていないのだけども、その時、お母さんは鶏の唐揚げを作ってくれた。白いお皿には千切りのキャベツも添えられていて、あとはお味噌汁にご飯という夕飯だった。
 台所からちゃぶ台に運ばれ、はい食べてとYちゃんのお母さんに声をかけられた時の私は、ひょっとすると鳩が豆を食らったような、失礼な顔をしていたかもしれない。というのも、私の育った家庭は、おかずが何品も作られる家だったからだ。だから、正直、「おかずってこれだけ?」って声に出さなかっただけ、私はまともだったかもしれない。でもすぐに、母子家庭だからか、と気づき、私は顔から鳩も豆も消した。ちなみに、その頃、私も母子家庭であったのだが、母の意地でおかずの品数を減らすことなくキープしていたそうだ。その辺りの話も面白かったりするので、これはまた別の機会に話そうかなと思う。

 高校一年の頃の私は、いま思うと一番しんどい時だったと思う。数年前に催眠療法を受けた時、この時代の私の顔は真っ黒で表情が見えず、それをセラピストに話したら、「よっぽど辛かったんだね。」と言われたことがある。

 確かに本当に辛かった。

 自死を試みたのもこの時期だった。
 けどまあ、勇気がなくて出来ず絶望の淵にいるとYちゃんはいつものように坂道をえっちらおっちら下って私に会いにきてくれた。母親にも言えない心のうちを、Yちゃんは聞いてくれた。

 その1年後、私は新人賞に入選し、暗黒の世界にビックバンで宇宙に放たれたような強い光が差し込んだけれど光は強ければ強いほど影も濃くなるものだ。
 小説家になることを母に反対され、理解されず、家にいるのも高校へ行くのも嫌になり、昼間からYちゃんの家に行ったことがあった。

 平日だったから、当然、Yちゃんはいない。が、お母さんは家にいて、フラフラとやってきた私を家に招き入れてくれた。団地の小さなリビングに入ると同居を始めたという別れた旦那さんのお母さんがいて、大きなよもぎを体に乗せてお灸をしている最中だった。
「まあ、座って。」
 と、言ってくれたと思う。
 おばあさんが寝転んでいる横に座ると、テーブルに竹籠に乗ったほそくて小さなさつまいもが輪切りになって乗っているのが見えた。
「よかったら食べて。」
 そう言われたと思う。そして、私が見つめるこのさつまいもは、茹でた後に少し天日干しすると美味しくなるのよとも教えてくれたのも覚えている。
 よもぎが燃える香ばしい煙の中、私はその素朴な味のさつまいもを食べ、Yちゃんが学校から帰ってくるまでそこにいた記憶がある。

 それから、1年後に小説家としてデビューをするのだが、その頃になると原稿の読み手は、Yちゃんから編集者の役割になっていたので、Yちゃんがその後、私の原稿を読むことはなくなった。それでも、デビューをして有頂天なる私の横で、同じように喜んでくれた。それは彼女のお母さんも同じだったけれど、一度だけ、「日常ちゃん(私)騙されてない?」と真剣な顔をして言ってくれたのを強烈に覚えている。化粧などまるでしない日焼けした額に皺を寄せていた顔が、なんだか嬉しかった。

 その後、Yちゃんは地元を離れ、お母さんを団地にひとり残して進学した。今みたいに連絡手段が手軽にできる時代とは違い、固定電話か手紙でしか連絡のやり取りができなくなってからは、あまり会わなくなっていた。当然、Yちゃんのお母さんにも会わなくなった。

 大人になって、たまたまYちゃんの住んでいた団地のそばを車で通りかかったことがある。その時、お母さんを見た。お母さんは膝下のスカート姿で、バッグを片手に長い坂道を駅まで下って歩いているところだった。その姿がYちゃんにそっくりで、えっちらおっちら歩きが懐かしかった。

 その後、数十年ほど経った頃、お母さんが病気を患い長期入院をしていると知った。喋れなくなっているとも聞いて心配になり、お見舞いに行きたいと申し出たが、時はコロナ禍。会えるわけもなくメールで、お大事にねと伝えるのがやっとだった。

 まだまだ暑いけれども、最近は朝晩は秋を感じる風が吹いている。そろそろ秋だなぁと思いつつスーパーに買い物に出かけると、ほそくて小さなさつまいもがいくつも入った袋がひとつだけカゴに入っていた。さつまいもの袋に目をやりつつ通り過ぎたが、ふと、高校時代に食べたほそくて小さい茹でたさつまいもを思い出して、カゴの前まで戻りカートにそれを入れた。

 おやつに茹でて食べよう。
 いや、あれっておばさん蒸してたのかな?一度、天日に干すって言ってたようなぁ、と思い出しながら、そのさつまいもは、けっきょく茹でて、干しもせず食べた。おばさんのように手をかけないところは昔のまんまだなぁなんて苦笑いをし、秋を堪能したその翌日、Yちゃんから訃報の知らせが届いた。

 晩年の、長期入院する以前のお母さんは、仕事も退職、団地で一人暮らしをしていたそうだ。そのとき、ひとりになった、子育ても終わったというプレッシャーからの解放からか、食が乱れていたという。好きなものだけを食べていたそうだ。
 それが原因で病気になり、結果として入院、寝たきりになったという。
 Yちゃんは、あんなしっかりしてたお母さんが・・・とショックを隠せないようだったけど、お母さんのその後の生活に想いを寄せると、ふと思うことがある。

 お母さん、しあわせだったかなぁ。
 しあわせと思う瞬間がいっぱいあったかなぁと。

 ほそくて小さなさつまいもだけじゃなくて、もっと美味しい太くて大きなさつまいもにバターをたっぷり塗って食べたかなぁ。栗だってさつまいもみたいにホクホクとして、甘くて美味しい。その栗もいっぱい食べたかなぁ。
 唐揚げも、いちごも、キャベツなんか食べずにいっぱい食べたかなぁ。

 そんなことばかり浮かぶ。

 人の善悪というのは、私には分からない。判断できるものではないから、何が良くて悪くて、なんてことは思わない。
 ただ、最期を迎えるそのときに、胸に宿るしあわせがぱんぱんに詰まっていたらいいのになぁと思うばかりだ。

 数日したら告別式があるという。
 数十年ぶりに会うYちゃんとそのお母さんに会ったら、私が暗黒の世界を歩いていたとき、本物の光を携えてそばにいてくれた感謝を伝えたいと思っている。


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