誰のために「自分の機嫌は自分でとる」のか
最近、パートナーに期待をしすぎていることに気づいた。
仕事で疲れた帰り道、モヤつきが生まれてしまっている日などは尚更、このしんどさを受け止めてほしくなってしまうのだ。労いの言葉をかけてもらいたい。優しい気持ちに包まれたい。
今後の付き合いをしていく中で、しんどい時に優しい言葉をかけてもらえなくて病んだらどうしようという気持ちもあり、満点に近い応答を望み、その対応がなされないと勝手に嫌な気持ちになるのだ。
ある日の仕事帰りのLINEで、こんな会話があった。
「なんでもっと寄り添ってくれないの?」
「こっちだって疲れてるんだよ」
「相手だって疲れているかもしれない」が、見えなくなっていることに気づいた瞬間だった。
そういえば最近、相手に「もっと」を求めることが多くなってきてるな。
他人の事情を想像する力が足りなくなってきている。要因は、相手に自分の機嫌を取ってもらおうとしてしまっていることだ。
「自分の機嫌は自分で取る」という言葉がある。
私だって、できていたと思っていた。むしろ得意だと思っている。1人の時間が多い時によくやっていたので、やり方はたくさん知っている。1人でスイーツだって食べに行けるし。
ただ、何のためにやるのかが、問題だと気づいた。
これまでの私は、ひとりを生き抜くためにやっていた。彼氏もできなくて、結婚できるかもわかない。誰も近くにいてくれない可能性があるのだから、自分で機嫌は取れないといけない。
また、依存的な恋愛をしないためという意味もあった。「すてきな恋愛ができるのは自分の機嫌をとれるご機嫌な女」というような言説の恋愛コラムを見たことはないだろうか。依存的なコミュニケーションをしていては対等な関係が結べないし、結べたとしても幸せな結果にならない。
全部「自分のためだけ」にやっていた。だから、できなくなった。
自分で機嫌は取れるけど、頼れる彼氏ができたら機嫌を取ってもらおう(取ってもらえるものだ)という気持ちがあったのではないかということに気づいた。
上に書いた私の機嫌を取る理由を逆説的に考えると、彼氏がいたら辛いことがあったら癒してもらえると思っていたんだろうな。
男性と対等で健全な関係を求める割には、自分は相手に頼りたい、優しい言葉をかけて癒してもらいたい。私が一番嫌いな、「可愛い奥さんに癒してもらいたい男」と似通ったことを求めていたのではないか。恐ろしい……。
相手を頼ることはもちろんいいけど、ご機嫌を取ってもらおうとするのとは違う。
「ご機嫌な女」だから「素敵な恋愛」ができるのであり、「素敵な恋愛」をするために「ご機嫌な女」になるのではない。
自分のために自分で機嫌をとれるから健全な関係が結べるのであって、相手ができたら相手にご機嫌を取ってもらおうとするのは、冷静に考えておかしい。
「相手のため」でもあるんだと気づいた。
たとえ結婚して共同生活をしたとしても、相手はあくまでも他人であることは変わらず、相手のリズムはある。
どんなことでも頼れる相手であって欲しいのはもちろんだが、その前提として自分の精神的自立が必要だ。何でもかんでも依存的に頼るというのは、相手の負担にもなる。改めて考え直すと、「対等な関係を築きたい」という願望でさえ、自分のためだったのだよな。
「自分の機嫌を自分でとること」は最大の思いやりなのかもしれない。
「彼氏がいようといないと自分の機嫌は自分でとる」べきだということにやっと気づいた。今気づけてよかった。