婦人科の診察室で気付かされた「自由と引き換えに意志が必要」ということ
人生のライフイベントをどのタイミングでどう迎えるべきか?を日々考える。
子どもは欲しい気もするし、欲しくない気もする。仕事は頑張ってはいるけど上を目指すのか、サポート職にいくのか。色々考えるが、どんな生き方をしてもいい今は「全てアリ」なのだ。
そんな中、最近婦人科に定期検診に行った。
なんとなく最近生理痛が重くなってきた気がして、調べると「子宮内膜症の可能性」の文字が目に入る。急に怖くなった。
ドキドキして受けた検査の結果は問題なし。
安心しつつも、身体の中の変化に怖気付いた私はブライダルチェックの必要性を訊いてみた。卵子の数や妊娠のしやすさは、「いつか」のためにも確認しておいた方がいいかと思ったからだ。
医者からは「妊娠するにあたって1番大事なことは若さです」と言われた。
妊娠出産を「後回しできることありき」で考えがちな私たち世代に向けた言葉のように感じた。妊娠を補助する治療は発展すれど、「生物的な限界は変わらない」のだ。
自由を手にした私たちは、無数の選択肢が与えられている。アラサーで「子どもはいつか欲しいかも」と思うなら、「いつか」とは「どういう状態になった時」のことを指しているのか考え、そしてその状態になるために必要なことを逆算して進めていくことも大事なのかもしれないと思った。
結果的に子どもを作らない/できないとなるかは流れ次第だ。しかし、なんとなく迷っている状態なら、ますばその流れ自体を作ることが必要ではないかと感じる。
以前は周囲からの圧力や空気感も相まって、子どもを作る計画が立てやすかった事実はあるだろう。
時代の圧力で生まれる軋轢とその代償は大きいし、苦しんだ人も多いだろう。
しかしその分提示される道が限られており、その中から選ぶだけなので、考えなくて済むのだ。
自由になった分、自分で意思や計画をコントロールする部分は必要なのかもしれない。
それは子どもに限った話ではない。
自分が満足できる人生を送るためには必要なことだ。
友人が1年考える自ら手を挙げてアメリカに研修に行くと聞いて、心がとてつもなくざわついた。
私はグローバルにあまり興味はないし、英語を使う仕事をする予定もない。
なのにこの気持ちはなんだろう。
やりたいことをはっきりと定め、意志を持って選び取り、集中する環境を選んでいる姿を見て心底羨ましくなったのだ。
今やりたいことがはっきり見えているから。
そして、友人と遊ぶ時間、ライフイベントよりも、目指す姿に近づくことを優先したいと考えそれを実行しているから。
何か犠牲にしてでもなりたい姿になるために努力している。
その友人以外にも、私の周りでは給料が平均年収より大幅に低かったり、生活リズムが昼夜逆転していたりしても、やりたいことを仕事にして日々仕事に邁進している友人がいる。
その人たちの話を聞くと、「私はこれで大丈夫?」と問いたくなる。
私は、本当にやりたいことがあっても何かを犠牲にするのは嫌だと思っている。
安定している今の企業を離れたくない、友人と離れたくないと考え、コンフォートゾーンを壊せない。
そして結局、何もかもが半端になるのだ。
もちろん365日、生活の全てに優先順位だてをしていたら疲れてしょうがない。明確にやりたいことがあるのが正解でもない。
ただ、真剣に向き合うタイミングの足音が聞こえつつあるのは確かだ。
身を持って体感したこのタイミングで、色々考え行動を始めようと思う。