納得感のある意思決定を目指した結果、2つの事が犠牲になっている事に気付いた話。
最近、チームで導入するプラクティスを決めたり、業務改善について話し合ったりしていることから、「議論して決める」という意思決定の機会が増えています。
その際、僕は最終決定権を持つマネージャーとして、出来るだけみんなにとって価値のある結論を出したいと思っていて、決定には「全員の納得感」を重視するようにしています。
これは単純に、「全員が納得する決定の方が、結果として高い成果を残せるのでは?」という仮説と、組織開発の一環として「決めごとが不満の温床にならないようにしよう」という考えによるものです。
「納得感を得る」という点だけを見れば取り組みとしては成功していると手応えを感じているのですが、その一方で、本当にいつも「みんなが納得するまで話し合うというやり方が最適なのか?」という疑問を持つようになってきました。
今日はその辺の気付きについて残しておこうと思います。
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そもそも何故疑問を感じたかと言うと、「全員の納得感」というものを追求した結果、2つのものを犠牲にしている気付いたからです。
ひとつは「時間」
全員の納得を得るには、当然全員の意見を出し合ってから決めるコトが前提になるわけですが、一部の声が大きい人が意見を言えば済むというわけではなく、放っておいたら意見を言わない人、意見を言うのが苦手な人からも聞き出す必要があります。
しかも、納得感を得るためには「ホンネ」であることが重要なので、心理的安全に大いに配慮する必要があり、ただ意見を聞くのに比べてとても時間がかかります。
更に、出し合った意見が異なる場合、説明や説得で理解を得たり、改善点や妥協点を話し合う必要があり、そこにもまた時間がかかると言えます。
その結果、ひとつのコトを決める為のコストが非常に大きく、一種の徒労感まで感じるようになってしまいました。
もうひとつは「想定外の大きな成果」
基本的に全員の納得を得るために議論や妥協を重ねた上で納得できるカタチに落とし込んでいることが多い為、非常に無難な選択をしている事も少なくないです。
つまり、常に最大公約数を正解として探している状態です。
その結果、みんなが納得しているということは、良い意味でも悪い意味でも想定外の化学反応は起こりにくいという事に気づきました。
全員が少しだけ納得しているよりも、一部の人間が全力で取り組める選択をすることも時には必要なんではないか?と思うようになったわけです。
これらを踏まえてみれば、何かの決めごとにおいて常に「全員の納得感」を追求する事は必ずしも最適解ではなく、別のリスクも孕んでいる事を考慮しなければならず、あくまでも手段の一つとして適切な運用を心がけねばならないということなんですよね。
現時点において、全ての意思決定のパターンを網羅することは非常に困難を極めるのですが、少なくとも
全員が強く主張を持っているというテーマではない場合
最大公約数的ではなく、ブレイクスルーとなるアイディアが求められる場合
といったようなケースでは、「全員で納得すること」が最適ではないかもしれません。
結論
納得感のある意思決定を目指した結果、「時間」と「想定外の成果」が犠牲になっている事に気付いたので、意思決定の際には全体の納得感に留意しつつも時と場合によっては意思決定のスピードを優先するなど、バランスの良い対応を心がけていく必要があると思った。
という話しでした。