哲学は金にならないのか
巷では、よく「人文系の学問なんて金にならないからやめとけ」なんてことが、まことしやかに囁かれていたりするわけでして、しばしば哲学はその筆頭として挙げられます。
筆者自身は、立派な学歴も育ちの良さも持ち合わせておらず、携えるは実存のみという、コリン・ウィルソンが言うところのアウトサイダーに属する人間ですので、物心ついたときからずっと学校教育に背を向けてきました。
いわんや哲学においてをや、です。そもそも哲学なる学問を知ったのは20代前半のことです。それまでは哲学なにそれおいしいの状態でした。そりゃあそうです。ろくすっぽ授業なんて聞かずに、読む本といえば漫画のみでしたから。活字の本なんて生涯自分には無縁のものだと思い込んでいました。
そんな筆者が、何の因果か恩師との出会いがきっかけで哲学に触れることになり、はじめて何かを学ぶことが楽しいと思えたのです。
もちろん恩師が教えてくれたからこそ、というのは多分にあります。アメリカ・ルイジアナ州出身の教育者であり、牧師でもあったウィリアム・アーサー・ウォードは「平凡な教師はただ話す。良い教師は説明する。優れた教師は態度で示す。そして、偉大な教師は心に火をつける」という名言を残していますが、筆者にとって恩師はまぎれもなく偉大な教師でしたから。
ただ、早々と学校教育に背を向け、長らく学問とは無縁の人生を歩んできた人間が、はじめて興味をもって主体的に学びたいと思えたのが哲学だったという事実は、哲学の性質をよく表していると思います。
学生時代はどんな教科に触れても、まったく学ぶ意味がわからなかった。けれども、哲学だけは違いました。学べば学ぶほど自分があらゆるしがらみから解き放たれて、どんどん自由になっていくような、そんな感覚があったのです。それからというもの、あくまで独学ではありますが、哲学との交流を続けてきました。
そのような経験から言わせてもらえれば、巷で言われている「哲学なんて金にならない」は、まったくもって的外れな見解だと思います。
そもそも金になるかどうかを唯一の価値基準にしている時点で、もうなんというかいろんな意味で見込みがねえなと筆者なんかは思うわけですが、今回はあえてその土俵に乗っかります。それもまた一興でありましょう。
ド底辺からの這い上がり
前述したとおり、筆者はろくに教育らしい教育を受けていない人間です。学歴は高卒ですし、バイトをばっくれる典型的な社不ムーヴをかましたことも何度かあります。
卒業後しばらくはフリーターをしており、その際の収入はたしか月収6~7万だったと記憶しています。
しかも、その大半は借金返済で消えていました。薄々察しがついているかもしれませんが、借金の主たる理由はギャンブルです。地方での実家暮らしだからこそ、なんとか生活が成り立っていましたが、一歩間違えれば完全に詰んでいたことでしょう。
20歳ではじめて正社員として勤めた時の給料は、額面で12万ほどでした。当時の高卒者の初任給平均がおおよそ17.3万円ですので、これは平均よりも30%ほど下回っている計算になります。われながらひどいスタートですね。ただまあ、これまでの経緯を踏まえると、妥当っちゃ妥当なところではないでしょうか。
それが今となってはどうか。業界的にはそこそこ知名度はあるものの、全国的にはまったくその名が知られていない土着の中小企業とはいえ、まがりなりにも執行役員を務めており、給与所得はゆうに年収1000万を超えています。
30代男性の平均年収は、高めに見積もっても約500万ほどですから、同世代同性の平均に対してちょうど2倍、100%上回っている計算になります。つまり、平均から30%下回っている状態から、100%上回っている状態へと這い上がったわけですね。
しかも、これはあくまで給与所得に限った話です。他の事業所得や雑所得を含めると、その差はさらに開きます。
とはいえ、誤解しないでください。別にこの金額を自慢したいわけではありません。そもそも自慢になるとも思っていません。どこまでいっても上には上がいますし、他人と比べるつもりもありません。比較すべきはいつだって過去の自分であり、決してよく知りもしない赤の他人などではないのですから。
最近はなんの衒いもなく、堂々と年収いくらだのいくら稼ぎましただのをbioに書く人が増えましたが、筆者はそこに品の無さを感じ取ります。
にもかかわらず、なぜ今回このように具体的な金額をだしたのかというと、「哲学は金にならないのか」の土俵に乗っかった以上、具体的な金額をださなければ、どうしても説得力に欠けると判断したからです。絶対値よりも差分を強調して伝えているのはその為です。
哲学との交流で育まれたもの
筆者がここまで這い上がることができた背景には、哲学の存在が非常に大きいと思っています。
たとえば、なにゆえ会社は筆者を執行役員に任命し、安くはない報酬を払うのでしょうか。業界大手のように余裕があるわけではないですから、当然ながら会社としてもそれだけの報酬を払っても費用対効果があると、そのように経営判断しているわけです。
ところが、筆者はたいしたスキルをもっているわけではありません。そりゃあ人並にPCまわりは触れますし、財務会計の知識なんかも一般社員よりはあります。けれども、それらを専門とする技術者や士業の人間から見れば、あってないようなスキルセットです。華々しい経歴をもっているわけでもありません。
部下たちや経営陣との対話から察するに、彼らが筆者に価値を見出しているものは、大きく分けて二つあります。一つは「そもそもの前提を疑うクリティカルシンキング」、もう一つは「真善美に依ったリーダーシップ」です。
そして、これらは間違いなく哲学との交流を通じて育まれたものです。その意味で、哲学はたしかに「稼がせてくれた」わけです。
多くの人が疑わないであろう前提を常に疑い、自己の中に確固たる真善美の感覚を有しているとどうなるか。ああ言えばこう言うまるで融通のきかない、非常にめんどくさい人になります。冗談です。いや、そういう側面はたしかにあるんですが、それはコインの裏側のようなもので、では表側は何かといえば、非常にめんどくさい人になると同時に「組織の課題が明瞭に認識できる人」になります。
枝葉レベルの課題であれば、そもそもの前提を疑う必要はないでしょう。しかしながら、幹や根の部分の課題になってくると、組織が無自覚に設けている前提ないしは常識を疑っていかなければ、真の課題を浮き彫りにすることはできません。
米国の科学史家でパラダイムシフトという言葉の生みの親になったトーマス・クーンは、1962年に発表された主著『科学革命の構造』の中で、パラダイムシフトは多くの場合「その領域に入って日が浅い人か、あるいはとても若い人か」のどちらかによってなされると指摘しています。
これは彼らパラダイムシフトの担い手、いわゆるイノベーターやディスラプターと呼ばれる人たちが、その領域に染まりきっていないがゆえに、その領域に浸透するそもそもの前提や常識を相対化し、疑ってかかることができるから、というのが大きな要因として挙げられます。
世間ではよく常識を疑えと言われますが、これがいかに言うは易く行うは難しなのか、あまり理解されていないように思います。常識を疑うというのは本当に難しい。なんせ疑いの余地がないほどに内在化された価値観を、普通、人は常識とそう呼ぶのですから。だからこそ、いつの時代においてもイノベーターは希少な存在なのです。
それだけではありません。課題を浮き彫りにするためには、もう一つ欠かせない要素があります。
そもそも課題とは何なのかというと、それすなわち「あるべき理想と現実とのギャップ」です。人が課題を見出す時、必ずそこにはその人の理想を含んだ実存があります。実存なき人間には必然的に課題を見出すこともできません。
そして、その実存を土台から支える真善美の感覚をダイレクトに育んでくれるのが、他でもない哲学なのです。
筆者が哲学との交流を通じて育まれた真善美の感覚に照らして、見出した組織の課題を改善していくことで、よりやりがいをもって働けるようになる実感が得られているからこそ、部下たちはついてきてくれているわけです。し、ひいてはそれが諸々の数字にも反映されるからこそ、経営陣も筆者の主張には嫌でも耳を傾けざるをえず、執行役員に任命して安くはない報酬を払っているわけです。
他の事業所得や雑所得についてもそう。哲学を通じて「自由」や「自己」についての思索を深めたからこそ、安くはない報酬を得てなお必要以上に組織の論理に縛られることなく、また組織と自己を同一化するような愚を犯すこともなく、ひいては他の事業所得や雑所得につながっているのです。その意味でも哲学はたしかに「稼がせてくれた」といえます。
どんな業界であっても、突出した収入を得る人というのは、みなどこかで哲学者の風格を漂わしているものです。
筆者は投資家の端くれですので、投資家を引き合いにだしますと、ジョージ・ソロスなんかはまさにその最たる例で、彼が提唱する再帰性理論がイギリスの哲学者カール・ポパーの哲学から影響を受けたことは広く知られていますし、当人もまた哲学者を志していたといいます。彼は投資家というよりも哲学者と称したほうがよほどしっくりくる人物です。
技術は技術でも
文脈上、どうしても手前味噌になってしまい、ずいぶん居心地が悪いのですが、なぜこのようなともすれば単なる卑小な自慢にしか聞こえないであろう話をしているのかというと、これは生存バイアスにまみれたn=1の体験談で終わらせるべきではないからです。
筆者は若かりし頃から、ずっと不思議に思っていました。同じくド底辺から這い上がっていく人たちを観察していると、どう見てもスキルは乏しい、人並以下のスキルしかない。にもかかわらず、得ている報酬が桁違いなのです。これはいったいどういう構造で、いかなる力学が働いているのだろうかと。
当時はわかりませんでしたが、今ならばはっきりとわかります。たしかに何かしらの技術を身に着けるのは、手っ取り早く収入アップにつながります。時代の要請が強ければ強い分野ほど、その傾向は顕著にあらわれます。昨今でいえばプログラミングや動画編集、これから先はAI関連がその筆頭でしょう。
だからこそ、そのような技術に直結する理数系の学問がもてはやされるわけですが、わかりやすく手っ取り早いのとトレードオフで、その限界は低いところにあります。スキル勝負では、人並以上の収入を得ることはできたとしても、突出した収入を得ることは難しい。
市場平均や適性・能力などを客観的に鑑みるに、筆者が必死でそれらの技術を身に着けたところで、せいぜい年収600万程度で頭打ちになったことでしょう。
実は突出した収入を得るために必要なのは、技術は技術でも自由になるための技術、すなわちリベラルアーツなのです。そんなリベラルアーツにおいて、哲学は欠かすことができない分野です。欠かすことはできない分野というか、むしろすべては哲学へと通ずる、といっても過言ではありません。
以下の絵を見てください。これはドイツの修道女ヘルラート・フォン・ランツベルクが編纂した『歓喜の園(Hortus Deliciarum)』という、中世ヨーロッパを代表する百科事典的な写本の挿絵です。
現代では広く一般教養と同義語で用いられがちなリベラルアーツですが、元々は文法、修辞学、弁証法、音楽、算術、幾何、天文学の自由七科を指しており、それら自由七科を支配しているのが哲学だとされていました。
絵を見てみると、真ん中に王冠をかぶっている人には Philosophia と書かれていますよね。これは哲学のことです。その下の二人は、左がかの有名なソクラテスで、右がプラトンです。
その円周にはラテン語で ARTE REGENS DIA QUA SUNT EGO PHILOSOPHIA SUBIECTAS ARTES IN SEPTEM DIVIDO PARTES と書かれており、意味は「種々ある諸天を(自らの)技によりて支配する私、哲学は、我が下にある科目を七つに分ける」になります。
近代以降、細分化とそれにともなう専門化が進むことによって、哲学は学問の一分野に成り下がりましたが、本来はこの挿絵が雄弁に物語るように、哲学というのは統一的かつ横断的で、特別な位置を占めていたものなのです。
英語の philosophy を哲学と訳したのは、明治期の学者である西周(にし・あまね)ですが、英語の philosophy はギリシャ語の philosophia に由来しており、「知(sophia)を愛する(philein)」という意味です。哲学者とは本来「知を愛する者」のことなんですね。
歴史にその名を刻むような哲学者というのは、みな「知を愛する者」であったがゆえに、あらゆる学問に通じていました。古代ギリシアでいえば万学の祖と評されるアリストテレスがまさにそれを地で行く哲学者ですし、近代でいえば天才の世紀と誉れ高い17世紀における天才中の天才、ゴットフリート・ライプニッツがその象徴でしょう。
こうした言葉の由来や歴史的背景からも、いかに哲学が統一的かつ横断的なのかを窺い知ることができます。
教養主義に陥らない
最後に、常々疑問視しているがゆえに、声を大にして言っておきたいことをば。これは人文系の学問に限らず、学問全般に言えることなんですが、学問に傾倒するあまり地に足がついておらず、現実社会へと接続できていない人が多すぎます。
象牙の塔にひきこもって、延々と内輪での議論や批評に興じてみたり、自らの興味関心のみに突き動かされた研究に没頭している、そんな人があまりにも多い。おそらくは彼ら自身も薄々気づいているものの、プライドやエゴが邪魔して見て見ぬふりをしているのでしょうが、それでは現実は何も動きません。
人生の一時期にそういう期間があるのは別にかまわないのです。筆者も若かりし頃はそういう時期がありました。今はもうなんとも思っていないどころか、むしろ誇りにすら思っていますが、教育らしい教育を受けてこなかったコンプレックスの反動で、社会を拒んで精神の密室へと立てこもり、ひたすら真理探究へと邁進してしまったのです。
筆者にとっては、それもまた必要な時期だったのでしょう。この時期があったからこそ、今の筆者がいるのは間違いありません。
ですが、いつまでもそれではいけません。われわれがこの現実社会に生きている以上、現実社会と接続されないままに過ごせば過ごすほど、それだけ手痛い代償を払わされることになります。
現に思い返してみると、やはりこの時期は辛く苦しかったです。いかんせん現実が1ミリも動かないものですから、当然ながら自分自身の豊かさも増すことはなく、閉塞感と焦燥感だけが募っていきました。
こうした状況を喝破しているのが、英国で古今最大の哲学者と目されるデイヴィッド・ヒュームです。彼の警句を引きましょう。
原注でも述べられていることですが、ここでヒュームが言っている科学とは Science の訳で、今日で言われる科学とは意味が違うことに留意してください。ここで言うところの科学とは、もっと広い意味で使われていて、ニュアンスとしては学問に近い。
要するにヒュームはこう言っているわけです。
「学問するのはかまわない。けれども、ちゃんとそれが行為につながって、社会に影響を与えるものでなければいけない。ひきこもって内輪でやいやい言ったところで、あなたがたはますます憂鬱になるだけであり、世間は冷たい反応を返すだけである」と。
最後の一文なんかは特に痺れますよね。ヒューム独特の言い回しもあいまって、ジ・アフォリズムといった感じです。
なお、一人の人間であれ。まさにそう。これが若かりし頃の筆者にはできなかった。今もまだその道の途上ですが、少なくともヒュームのこの箴言に感銘を受けるぐらいにはなれたようです。
もういっちょ引いておきましょうか。ここ最近、筆者の中でセネカブームが再燃しているので、セネカの言葉から引きましょう。
ヒュームにしろセネカにしろ通底しているのは、「現実をちゃんと動かしなさい」ということです。そのためには教養主義に陥ってはなりませんよと、彼らはそう言っているわけです。
昨今、何かとリベラルアーツがもてはやされ、ビジネスパーソンにも教養が求められる風潮にありますが、それ自体は歓迎すべきことです。教養なきビジネスパーソンには、ビジネスの力学を用いて現実を動かすことはできても、"正しく"現実を動かすことはできないのですから。
その傍証として、たとえばSNS上を見渡してみると、知性も品性もへったくれもない、ただただ資本主義社会に適応して、金だけは持っている傲慢で浅ましい人間が、掃いて捨てるほど目につきます。
一方で、これは逆もまた然りです。教養主義者は巷で言われているビジネス戦闘力なるものを上げていかなければなりません。教養主義者には何が"正しい"かはわかったとしても、世界を変革させる可能性を秘めたビジネスの力学に無頓着な以上、現実を動かすことなど不可能なのですから。
教養主義とビジネス戦闘力、この両輪がそろってはじめて現実を正しく動かせる可能性が生じます。オスカー・ワイルドの言葉を借りれば、現実を正しく動かそうとする人間は「星を見上げながら、ドブの中を這う」必要があるのです。
古代ギリシアの哲学者タレスは、得意の天文学を用いて、翌秋のオリーブの豊作を予想しました。そして、地元のオリーブ圧搾器の所有者に支度金を預け、収穫期には圧搾器の独占的使用権を自分に与えるように交渉します。その結果、予想通りの豊作となり、より高額な使用料で農家へ転売し、タレスは大儲けすることができました。
これはアリストテレスの著書『政治学』で述べられている、先物取引の最も古い記録ですが、学問で金儲けせよとそう安直に言いたいわけではありません。教養主義者はタレスのビジネス戦闘力から多くの学ぶべき教訓がある、そう言いたいまでです。