想像力をもって、バランスをとって
noteを始めた理由から、急に読書マラソンに移るのもあれなので、自己紹介も兼ねて、自分の信条のようなものを語っておこうと思う。この信条というのは、生まれてから常に意識して節目節目の自分の選択に作用してきたというわけではなく、振り返ってみれば「こういうことを大事にしてきたんだな」「これからも大事にしたいな」くらいの感じ。
想像力。これは簡単に言ってしまえば「相手の立場に立って物事を考えましょう」という、小学校で習うようなことだ。もう少し難しい言葉でいうと、「社会学的想像力」というのに近いかもしれない。これが僕の信条だ。
これは、アメリカの社会学者C. Wright Millsが、"The Sociological Imagination"(日本語版訳書も数冊ある)という本の中で提唱した能力のこと。僕もいくつかの授業で一部を読んだだけなので深くは理解できていないが、この「社会学的想像力」というのは、「公」の問題と「私」の問題とを絶えず行き来し、結びつける力。あるいは、同じ「私」であっても複数の面から問題を捉える力である、ととりあえずは解釈できると思う。これがなぜ必要であるか、という点を二つの例から考えてみたい。
教育問題と想像力
僕は卒業論文を「教員の多忙」というテーマで書いている。そうでなくとも、来年からは教員になるので、こと教育に関しては人よりもアンテナを張っているつもりだ。そんな時、ICT化や小学校の教科担任制をめぐる議論が行われている中央教育審議会初等中等教育分科会において、現職の校長から痛烈な批判がなされた、という内容の記事を目にした。
「この審議会の議論は、もっともだと思う。でも、学校現場がどう考えるかを思うと、気が重くなってしまう。限られた時間しかないのに、学校に期待されていることが、あまりにも多すぎると感じるからだ。・・・新しいことを教師全員が理解するために研修が必要だ、という声が聞こえてくる。教師が勉強するのは当然だが、研修を増やすと言っても、それが簡単にできるのか・・・本当に時間的には一杯一杯なのに、(残業時間を減らす)働き方改革をやれ、と言われる。そこに新しいことをやらなければならない。現場では『言っていることと、やっていることが、全く違うじゃないか』と思っているのが現実だ。・・・もっと想像力を持って施策をやらないと、現場はついてこない。現場がついて行きたいと思っても、ついていけない。次から次に要求があり、そこに働き方改革と言われる。これでは『もう、やってられない』と、現場の教師は思ってしまう」(・・・は中略、強調部は筆者による)
『教育新聞』2019年10月4日
「『もう、やってられない』中教審で現場教員の本音訴え」
この校長が言う「想像力」というのは例えば、「英語民間試験を受験に導入するとなると、僻地・離島に住む生徒の負担は尋常ではないな」という想像力であったり、「単に残業時間を減らそうと言ったって、目の前に困っている生徒がいるのに『私、定時だから帰るわ!』なんて言えるわけないよな」という想像力だったりする。このように、「私」の問題、もっと言えば個別具体的な問題を見ずに、「公」の場だけで議論しても、問題は何一つ解決しないということが最近の教育情勢を見ていれば否が応でも分かると思う。
家族と想像力
もう一つ例を。僕は辻村深月という作家がめちゃくちゃ好きだ。(ちょこちょこ自己紹介も混ぜていることに気付いてほしい。)一番最近読んだのが『クローバーナイト』という文庫本。「家族」をテーマにした本で、志保・祐という二人の子どもを持つ夫婦の話だ。ここで印象的だったのは、
志保の母は、琉大(志保の息子)の言葉の発達を心配し、志保と話すたびに「琉ちゃんの言葉が心配だから○○(保育園の先生、保健師や医者、言葉教室など)に相談しなさい」と言ったり、琉大に言葉を発することを強要したりする。志保はこういう母親の態度に徐々に追い詰められていくのだが…
という場面。ここでもやはり「想像力」の欠如が問題になる。志保の母は「娘・孫のためを思って私がやってあげていることなんだから、ありがたいに決まっている」と無条件に信じている。「自分がやっていることは娘夫婦を追い込んでいるのではないか?」「孫を傷つけているのではないか?」なんてことは夢にも思っていない。こうなると彼女が無意識に「正義」だと思い込んでいる行動は全て、「暴力」へと姿を変える。想像力の欠如は、時に正義の暴走を招く。
想像力の欠如した無茶苦茶な政策も、家族に対する善意も、等しく正義の暴走であり、暴力だと思う。だからこそ、僕はどういう問題について考えるときも、「想像力」を忘れないでいたいと思う。想像力を持っていれば、自分の中でバランスが保てる。中立的でいれる。自分が絶対的な正義だと思い込まずに済む。右だ左だ、男だ女だ、金持ちだ貧乏だと、分断が進んでいる(といわれている)社会において、中立の存在は、問題の直接的な解決にはつながらないかもしれないが、議論を前に進めることはできると思う。少なくとも、ただの罵り合いよりはよっぽどましだ。
とりあえず、「(社会学的)想像力をもって、バランスをとって」というのが自分の中で一つの軸であるというのは、間違いなく言える。
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