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【連載・能登の遺伝子⑤】あの日に見た能登の里山を守る/移住から起業、復興の担い手へ/一般社団法人のと復耕ラボ 代表・山本亮さん㊤

「能登あるある」とでも言おうか。

インタビュー取材中、どうにもスタッフに見えない御老人が、ふと事務所へ入ってきて、事務所内を一通り見回ってからテーブルについた。取材に口を挟むわけではなく、やり取りを温かく見守っている。事務所の主はというと、ちらりと御老人を見やったものの、何事もなかったかのように語り続けた。

スタッフでなくとも「身内」のような立ち振る舞い。もしや、主のお父さまだろうか?

「えっと…、近所のじいちゃんです」

そこは輪島市三井町の「古民家レストラン茅葺庵」。能登半島地震後は災害ボランティア受け入れや古材リサイクルの拠点となっている。

「主」たる山本亮は震災以降、ここをベースに復旧・復興に汗を流し、住民やボランティア、支援者、企業関係者らと交流してきた。さらに、有識者として会議に出たり、こうして取材に応じたり。まさに八面六臂の活躍ぶりである。

「逃げ出したい」

今から1年前、2024年1月1日に起こった能登半島地震は、そこに住む人々に自身が果たすべき役割や地域との関係性を再確認させた。

大都市圏と比べ、地方は出身地と個人のアイデンティティーが結びつきやすい。能登も「俺は〇〇〇のもん(者)」という自意識が根強く、地縁を大切にする土地柄だが、震災の後は泣く泣く故郷を離れた住民もいる。とりわけ震災直後は大きな余震が続いており、もともと縁の薄い移住者が能登から出ることを早々に決断しても不思議はなかった。

かくいう山本も、実は身の振り方について心が揺れた移住者の一人だった。神奈川県生まれ・東京都育ちで、10年前に能登へ移住し、2020年から輪島で古民家ホテルを経営してきた。しっかりと生活の基盤を築いていたが、甚大な被害と山積みの課題を前に「知人には『能登から逃げ出したい』と相談し、真剣に考えていた」と振り返る。

いっそ逃げ出してしまえば楽だっただろう。いま能登を離れても誰からも責められないというような雰囲気もあった。

それでも、山本はとどまった。「離れない」という決定を後押ししたのは、これまでに培ってきた人間関係や地域とのつながり、能登で実現したい理想があったからだという。

大災害を経てなお捨てなかった理想とは、何か。話は20年近く前、山本の大学生時代にさかのぼる。

人が風景をつくる

山本が高校卒業後、東京農業大学に進んだ。当時は「自然と人の共生空間」という概念が広まって「ビオトープ」という言葉がもてはやされていた時期。山が好きな両親に育てられた山本は、進路として「造園学」を選んだ。

ところが、大学生活ではすぐに難題にぶつかる。樹々や水辺と人の暮らしが調和した新たな都市景観をデザインするには図面が欠かせないのに「どうもうまく描けなかった」。大学生になってからスタートを切った同級生と比べても、上達ぶりは芳しくなかったそうだ。

この挫折は、しかし思わぬ天啓をもたらす。「待てよ。何も都市に限らなくても、自然と人が共生する空間というのは昔から『里山』という形で存在するじゃないか。こういう景色を守りたい」

20歳の時、所属するゼミの夏合宿で、初めて能登を訪れ、半島の各所に残っている「文化的景観」を見て回った。

山本によると、文化的景観とは人の暮らしがあるからこそ成り立っている景色を指している。たとえば、輪島市大沢町地区で住宅を囲うように竹を張って作る「間垣」は、冬の季節風や夏の西日から家屋を守る。山を背にして日本海に面し、強風や直射日光を遮るものがない地理条件のもとで生活を営むために、脈々と受け継がれてきた文化的景観と言える。

つまり、ただ風景が美しいわけではない。人の暮らしが美しい風景をつくっている。そう思い至って感動していると、能登のおじいさんから、こう言われた。

「わしらには里山があるから、食べるものには困らない。だから、たとえ貧乏だったとしても人に優しくできる」

聞いた山本は「かっこいい」と憧れを感じた。自分は首都圏で生まれ育ち、物質的には恵まれた環境で暮らしてきたはず。でも、目の前のおじいさんは全く異なる価値基準で生きている。手元にある自然の恵みを近所同士で分け合い、手間を惜しまずに他人をもてなし、それでいて笑顔が絶えない。

「これが本当の豊かさだよな」「年齢を重ねたら、こういうことを言えるようになりたい」。都会育ちの青年の胸に「能登」が深く刻まれた。

移住プランを前倒し

この頃の山本は人生を20年スパンで捉えていたという。20歳ごろまでは勉強し、40歳ごろまでは都市で働き、それから地方へ移住するライフプランを思い描いていた。

ところが、実際に山本が能登へ来た年齢は27歳。実に10年強も前倒しした背景には、高齢化や人口減少があった。

「自分が40歳になる頃、あのおじいちゃんたちは果たして元気でいてくれるだろうか?」。生活と強く結びついた文化的景観だからこそ、もしも担い手がいなくなったら簡単に途絶えてしまうかもしれない。時間的な余裕はなかった。

「とりあえず3年やってみて、それでダメでも、まだ30歳ならやり直せる。今なら能登に飛び込める」

ひとまず、地域おこし協力隊として輪島に移ることに決めた。

里山を表現する

能登にやってきた山本は、まず能登産米のブランディングに携わる。

商材となる米を食べてみると、確かにおいしかった。でも「おいしい米」は全国各地にあり、味だけでは差別化しにくい。そこで、小分けの包装デザインを産地ごとに細かく変更し、能登を旅しながら米を食べ比べるような体験のできる商品を開発した。

単に米そのものを売るのではなく、育った環境までをパッケージに込めて魅力を打ち出す。それはまるで、米という商品の中に里山を表現したかのようだ。こうした姿勢は、彼が2020年にオープンした「里山まるごとホテル」をはじめ、一般社団法人のと復耕ラボの取り組みでも一貫して体現されることになる。

里山を守ることを通じ、自然と人が共生する空間をつくるという理想。学生時代の挫折にはじまるストーリーは、その暮らしぶりに魅せられた能登の地で、移住当初から、そして今も彼を突き動かし続けている。

(敬称略。ライターは国分紀芳が務めました)


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