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【連載・能登の遺伝子⑦】用途を決めず買った日本家屋を宿に/「からっぽ」に詰めた想い/古民家ホテル「奥能登 じろんどん」女将・水上志都さん㊤

厳寒の能登におとずれた晴れ間、凪いだ海の向こうに、白んだ山並みが姿を現した。立山連峰である。

能登半島は日本海に突き出ており、内浦側では富山湾越しに立山の雄姿を拝める。老いも若きも「立山がきれいに見えたら、翌日は雨」という言い伝えを口にできるほど根付いた風景だ。

そんな立山連峰を望む能登町内浦長尾という集落で、2023年7月、ひときわ大きな日本家屋がホテルに生まれ変わった。

もともとは集落の名家の邸宅で、しばらく空き家だった。それを東京から移住してきた水上志都が購入して改装した。彼女は今も、その建物に出会った2021年当時の印象を記憶している。「威風堂々として、とにかくカッコよかった」

ただ、現代の住宅市場において、貫禄ある日本家屋は敬遠されがち。規模も間取りも持て余すし、修繕が必要な箇所もある。内浦長尾の古民家も買い手がつかなければ解体されると耳にした水上は「もったいない!」と購入を決断した。

自宅は別にあったから、そこに住みたかったわけではない。買おうと思っていたわけでもない。ただ壊されるのを避けたくて、その解決策が「私が買う」だった。で、それから考えた。「どう使おう?」

宿にすると決めて改修を始めたのは、購入から1年後。オープンはさらに1年後のことだった。

IT業界で抱いた疑問

幼少期の水上は、父が転勤族だったことから引っ越しが多かった。生まれは横浜で、富山や平塚、船橋などでも暮らしたという。実家は最終的に茨城に落ち着き、自身は25年ほど東京に住んで働いた。

高校進学時は「一般的な勉強はしたくない」と工業高校へ。まだ男子生徒が99%以上を占めていた頃だった。卒業後は化学メーカーの技術開発物性解析部門やシンクタンクの研究助手を経て、セキュリティソフト「ウイルスバスター」を開発する会社「トレンドマイクロ」に入る。

トレンドマイクロでは台湾人やアメリカ人の上司のもとでテストエンジニアとマーケティング部門を経験。仕事は楽しかったが、サラリーマン人生の折り返しに当たる40歳に差し掛かり「技術革新の速いIT業界で、定年まであと20年、業界についていけるだろうか」と疑問が沸いた。

ところが、IT業界以外への転職となれば、収入が減る。コストの高い東京での生活は苦しくなるため、迷いは拭えなかった。

「ところで、なぜ東京で働いてるんだっけ?」。そりゃ、東京で暮らすにはある程度の収入が必要で、だから東京の企業で働き、そのために東京で暮らすから収入は多く…。無限ループだった。

折しも、全国の自治体が移住促進に力を入れ始めていた頃。東京で仕事をしなければ、東京に暮らす理由もない。しかし、見知らぬ田舎へ移り住んで、自分はどんな仕事をするのか。

地域留学に参加したり、まちづくりに取り組む人々から話を聞いたところ、何かしら仕事はありそうだ。「最低限の生活が送れるだけの収入が得られれば、それで良い。行き当たりばったりだけれど、暮らすための仕事が見つかれば構わない」。東京を出ること、移住することが現実味を帯びてきた。

「不便は承知の上で」

それはそうと、では、日本のどこに住むのか。

水上が移住先に求める条件には「雪が降る地域」「中途半端じゃない田舎」などがあった。都会から移り住む先がミニ東京化した地方都市ではつまらないし、東京を出るなら、より四季の移ろいがくっきりとしたエリアこそ望ましいということだろう。

条件に当てはまる地域として能登が思い浮かんだ。富山で過ごした小学生時代、家族で一周した思い出の地である。「海と山のバランスがちょうど良い」と好印象をもっていた。

そこで再び訪問したところで、運命が動く。能登空港へ着いたとき、たまたま能登町の持木一茂町長(当時)と話す機会があった。会話の中で町長自ら「何?能登に移住したいの?」と前のめりになる姿勢に面食らいながらも「おもしろい。せっかくだし能登町にしよう」と思ったらしい。

ただ、都市生活に慣れた人にとって、地方生活は不便が多い。最近は田舎暮らしが1つのトレンドのようになっているが、いざ住んでみると理想と現実のギャップに直面し、早々に都市へ戻る人もいる。この点、水上は能登に来て戸惑いはなかったのか。

「そんなの、不便は承知の上なんだからさ」。都会と同じモノサシで便利だの不便だの魅力を論じてどうする、と言わんばかりだ。たしかに飲食チェーンはないし、買い物の場所も少ない。車がないと生活しにくい。でも、海があり、山があり、それら自然の恵みがある。「ちゃんと根を下ろせば、地域のライフスタイルになじんでいくもの。その変化の過程を楽しめばいい」

地域があって、自分がいる。自分がいて、地域があるわけではない。その関係性を違えるとズレが生じるのだろう。

いつの間にか、ナスの山

移住して発見したこともある。

まず、一日が長くなった。17時に終業したら17時15分に帰宅できる。19時に退社し、買い物や食事をして帰宅したら22時過ぎという都市生活と比べると、時間の流れが根本的に異なっていた。

時間だけではない。ヒト、モノ、カネ、サービスの捉え方は都市部と田舎で違う。

ある日、水上のもとへ近隣住民がナスを持ってきてくれた。追って他の住民も。そのまた他の住民も…。

能登には良いものをもらったり、たくさん収穫できたりすると、近所にお裾分けする文化が根強く残る。気付くと、水上宅には6kgものナスの山ができていた。都市部にいると、モノやサービスは基本的にカネと交換して手に入れる。一方、能登では、みんなが持ちつ持たれつ。思いやりや信頼に基づく別の経済があると気付いたらしい。

目的地になる

移住直後の水上は食材流通会社の社員として能登の暮らしぶりを体感した。その後、移住コーディネーターを務める中で、内浦長尾で空き家だった日本家屋と出会う。前述の通り、用途を決めないまま購入した。

内浦長尾は静かな集落である。日本海に面し、立山連峰を望む。背後には山がある。そんな立地にある大きな古民家。「さて、と」。土間に座る水上を、心地良い浜風が包んだ。「宿、かなあ」

あらためて、奥能登(輪島市、珠洲市、能登町、穴水町)の観光の位置づけを考えてみる。残念なことに、金沢や和倉温泉(七尾市)から日帰りで立ち寄る先という性格が強いと感じた。「それなら、旅の目的になる宿を奥能登につくろう」

一棟貸し切りで、自身が旅のコンシェルジュとして地域の観光地や飲食店を紹介する。シェフに宿まで出張してもらうこともある。

コンセプトの「からっぽに満たされる宿」という言葉は逆説的に聞こえるが、あえて「何もない」という状態をつくりだし、それを心から堪能してもらうというもの。だから、宿にはテレビも時計もない。

建物の改修は最低限にとどめた。日本家屋は軒が長く、部屋数が多い。室内は薄暗く、開放感のあるリゾート施設とは真逆である。

この点、文豪・谷崎潤一郎は「陰翳礼讃」にて、ほの暗い日本家屋の中だからこそ漆器などの細かな表情が美しく見えると言う。

軒が長いからこそ、季節の移り変わりとともに陰のありようが変化し、屋内にいながら自然とともに生きる自分の存在を感じられる。能登の先人は厳しい冬の短い晴れ間を喜び、暑い夏の浜風に爽やかさを感じ取ったことだろう。その生き方を、いま、宿泊体験として提供する。「からっぽ」には長い歴史やたくさんの想いが詰まっているのだ。

ただ、自然はわれわれを温かく包み込む反面、ときに大きな試練をも与える。

宿のオープンから半年後、能登半島を大地震が襲った。

(敬称略。ライターは国分紀芳が務めました)

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