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【連載・能登の遺伝子③】オープン半年前に崩れたゲストハウス/元県庁マンの挑戦つづく/株式会社湊(ゲストハウス黒島)代表取締役・杉野智行さん㊤
時間の止まった場所
2024年10月、輪島市門前町黒島町で、数十人を前に能登半島地震での被災状況や復旧状況を説明する男性の姿があった。株式会社湊の代表取締役を務める杉野智行である。
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黒島町は重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に指定されており、黒瓦の家々が並ぶ歴史的な景観が特徴の海辺の集落だ。地域の中心から北寄りには国指定重要文化財の「旧角海家住宅」があり、北前船による交易が盛んだった頃の栄華を現代に伝えている。
地理的には能登半島の西側に位置し、震源となった半島北東部の珠洲市からは距離がある。そのため、ともすれば被害が見過ごされがちな面もあるが、被害は決して小さくなかった。
その黒島町を視察に訪れた全国の地域づくり団体の一行が、杉野に続いて路地を抜ける。「次はこちらへ」。視界が開けると、一同は思わず息をのんだ。そこで威容をたたえているはずの旧角海家住宅が完全に崩れ落ちていたのである。
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地震でたくさんの犠牲者が出た。爪痕は半島の至るところにあり、必死の復旧作業が続くものの、倒壊したまま手付かずになっている建物も多い。それらを知識として持ち合わせていたとしても、いざ猛威の跡を目の当たりにすると、やはり言葉を失ってしまう。
「この旧角海家住宅は2007年の大地震で全壊し、2011年に復元されました。文化財なので安易に触れられませんが、今回も何とか再建しようとの働きかけが始まっています。そして、向かい側を見てください」
そう言って杉野が指さした先には、屋根瓦の崩れた家屋があった。窓には「ゲストハウス黒島 2024年夏OPEN」の貼り紙。もともと杉野が宿泊業を始めようとしていた建物だった。よく見ると、屋内には青い灯油ポリタンクがいくつも残されているのが分かる。
この建物の時間は冬で止まっている。「夏」は来なかったのだ。
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地域をつくるもの
2024年1月1日午前、ゲストハウスのオープンを半年後に控えた杉野は正月を一部返上して屋内に床板を張っていた。「そして、ようやく妻の実家に行ったところで、地震に遭った」
急いで黒島町に戻ると、集落の住居がいくつも倒壊していた。㊦で詳しく触れるが、陸地は大きく隆起し、道には無数の亀裂が入った。高台へ続く階段はところどころ崩れていた。
そんな厳しい状況下にあって、杉野を驚かせたことがある。彼が黒島町に駆け付けた段階で、集落に住む全員の安否が判明していたのだ。
いくら過疎化が進んでいるとはいえ、住民は280人余りいる。正月に帰省していた人も合わせると、300以上。それだけの人数の安否を迅速に把握できるのは、まさに日ごろから育まれた地域の絆のなせる業だった。
豊かな海があり、深い山がある。それは確かに能登の心象風景の1つではあるが、それだけで能登が成り立っているわけではない。あくまで住民ひとりひとりが地域を形づくり、風土をつくっている。
能登に生き、能登を愛する人々がいれば、きっと地域は再興できる。予定していた建物が使えなくなっても、杉野が黒島町でゲストハウスを開くという夢を諦めることはなかった。
「えっ、公務員やめるの!?」
ここで杉野の経歴に触れる。
取材の日、筆者の前に現れた杉野は、こんがりと日焼けした肌、丸刈り頭に無精ひげ、ポロシャツ、短パン、ビーチサンダルという姿だった。いかにも「根っからの海の男」という見た目なのだが、実はちょっと前まで石川県庁に勤める公務員だったという。
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ラフな出で立ちと堅い前職。会話の口調はフランクだが、内容は整然としている。数々のギャップに戸惑いながら前職での所属を尋ねてみると、杉野は「いま、土木系だと思ったでしょ?」と笑った。図星だ。「よく言われるけど、実は思いっ切り事務職です」
杉野は津幡町に生まれ、金沢で育った。幼い頃から父に連れられて能登へ釣りに来る機会があり、社会人になってからも能登に通った。県庁での日々は充実していたが、一方で「自分の人生、このままで良いだろうか?」という引っ掛かりのようなものもあったという。
しかし、県庁といえば、地方では1、2を争う人気の就職先だ。外部の人間からすれば「一生安泰」というイメージで見てしまう。案の定、知人に将来の相談を持ち掛けると「えっ、公務員を辞めようとしとるの!?」と驚かれたそうだ。
あれこれと思い悩む日々は2年ほど続き、その間に能登への想いは募っていった。「自然に囲まれ、能登らしい暮らしが息づく地で、ゲストハウスをやりたい」。当初イメージしたのは「猟師」と「漁師」のための宿。旧角海家住宅の向かいで開業に向けた準備を始めた。
高齢化率75%の集落で
このように、もともとのコンセプトは「趣味性の高い宿」(杉野)だったが、その後に起こった能登半島地震の影響により、方向性は変わっていく。
発災直後、地域住民は公民館や寺の広間といった避難場所を確保できたが、壊れた建物や家具などの片付けは大変だった。能登半島の各地と同じく、黒島町も山と海に挟まれた細長いエリアに家々が密集している。災害ごみの仮置き場に使えるような広い空き地は少なかったのだ。
また、高齢化率が75%と高く、現役世代は指折り数えられるくらいしかいない。若者が地域の復旧に向けて果たす役割は、普段以上に大きくなる。その役回りを真正面から受け止めるため、杉野はボランティアチーム「黒島復興応援隊」を組織し、屋根にブルーシートを掛けたり、ごみを搬出したりと奔走した。
ただ、そうして足元の作業に没頭する傍らで「地域衰退への道が一気に進んでしまった」という感覚もあったそうだ。
震災対応で中断していたゲストハウスの整備をこれから再開するとして、手掛けるべきは当初に思い描いた趣味性の高い宿で良いのだろうか? 傷ついた黒島町を眺めながら自問自答を繰り返すうち、新たな方向性が見えてきた。
それを表現したのが、社名にある「湊」の1字である。
㊦へつづく
(敬称略。ライターは国分紀芳が務めました。)