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2025年、いざ復興をカタチに/「シン・いやさか会議」で能登半島地震1年を振り返り、新年へ意気込み新た

一般社団法人能登復興ネットワークは2024年12月23日夜、オンライン報告会「シン・いやさか会議」を開き、能登内外の約50人が元日に発生した能登半島地震後からの1年間を振り返るとともに、2025年は復興に向けたさまざまな試みをカタチにする年にしようと意気込みを新たにしました。

報告会は事務局側から出した「お題」に対し、登壇者らが答える大喜利形式で進みました。

2024年を現す漢字について、森進之介さん(能登町)は「人」と回答。立て続けに災害に見舞われる中、家族や同僚、支援者など周囲の人々だけでなく、たとえ物理的な距離があっても助け合えると実感したと話しました。山本亮さん(輪島市)は「縁」を挙げて「地震からの復旧が落ち着き始めた9月に水害があって心が折れかけたが、いろんな人が駆け付けてくれた」と感謝しました。

再会時の涙のわけは…

2024年に経験した記憶に残る瞬間に関し、司会を務めた事務局の森山奈美(七尾市)は、4月に能登町の森さんと再会した際のエピソードを披露しました。森山は震災直後、森さんに能登町で必要な物資の調整を依頼。森さんは精力的に動いてくれました。ところが、実は森さんは地震で次男を亡くし、自身も怪我で入院中だったのです。それを知らない森山の依頼に快く応じてくれていた人柄に、再会時は涙を隠せなかったと語りました。

足袋抜豪さん(珠洲市)は震災直後に困って頼れる存在を欲していた当時、久しぶりに岩城慶一郎さん(珠洲市)と顔を合わせて「ああ、会いたい人に会えるって、こんなにうれしいことなのかと感じた」と紹介しました。

「防災=行政」ではなく、民間でできることを

その岩城さんは2024年に手に入れたものを「金」、次の被災地で生かせると考えたことを「3日→7日→21日→75日」と答えました。

被災後はたくさんの寄付金が国内外から集まり、被災者の生活を支えてくれました。ただ、寄付の多くは発生から75日以内に偏っていた現状から、岩城さんは「何かアクションを起こすなら少なくとも75日以内にしないと世間の関心が薄れてしまう」と説明しました。

さらに、当初3日間は支援が届かないことから自力で命を守る必要があり、災害関連死を防ぐため7日(1週間)後までに避難体制を構築した方がよいと指摘。気骨ある地元住民が各種の活動を始める21日(3週間)後ごろにはボランティアが入ってくるので、その受け入れ体制を整えなければならないという経験則を示しました。

七尾市で民間ボランティアセンター「おらっちゃ七尾」の運営に携わる今井健太郎さんは、被災後は行政に仕事が集中する実態を踏まえて「どう行政を動かすかだけではなく、まず民間で事例をつくり、それを行政と一緒にやるのが大切だと感じた」と振り返りました。そうしたスタンスで臨むことで、民間でできることの幅が広がるケースが能登でみられており、他の地域にも生かせる知見だとしました。

復興へ新たな人材を/“やわやわ”と進む

最後の問いかけ「2025年に取り組みたいことは?」には、岩城さん、山本さんが「そろそろ実装したい」と口をそろえます。2024年は度重なる災害で受けたダメージがあまりに深刻で、それらを修復する「復旧」に向けた作業に多くの時間を割きました。明けて2025年は地域の未来を見据え、新たな価値を生み出す「復興」フェーズへの移行を進めたいという意思表明です。

いま、被災地・能登は新たな形の支援を必要としています。これまでは災害ごみや土砂を除去してくださるボランティアの方々に支えられてきました。しかし、これからの復興に当たっては、既存建物の解体で増えた更地やビジネスを通じた産業振興などにアイデアやノウハウを持つ人材の確保が課題になる可能性があります。そうした面で地域外の方々の力をお借りできれば幸いです。

もっとも、地震から丸1年がたち、被災地では復旧に奔走してきた関係者に疲れが蓄積されてきたタイミングでもあります。足袋抜さんは新年について「長期休暇がほしいなあ…」とポツリ。その一言に報告会の雰囲気は和み、参加者みんながしみじみと頷きました。

「2年目は“やわやわ(=のんびり、無理せず)”やっていこうよ」。復興に至る道のりは、まだまだ長い。道中で息切れしないよう適度に肩の力を抜きながら、少しずつ、でも着実に歩んでゆこうと考えています。

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