追想〈#16-18〉
#16
高校はビルの中にあった。多くの人が想像するような高校の校舎ではない。運動場もなかったから、授業などで運動をするときは公共施設を学校が借りていた。教室はいかにもビルの一室といえるものだった。最初は戸惑った。でも慣れた。
それよりも戸惑ったのが授業内容で、数学の授業が分数の計算から始まったことがショッキングだった。察するに、底上げ(ボトムアップ)方式の授業を展開しないと、授業内容についていけなくなってしまう生徒が出てくるからなのだろう。
僕が在籍した高校には不登校経験者が少なからずいて、その年数もさまざま。だから画一的な授業は難しいだろうとは思う。習熟度に合わせて個別対応もあったから、学校についてそこまで不満が大きかったわけではなかった。
#17
大学受験を意識して予備校に通い始めた。昼は高校の授業を受けて、夜は予備校の授業を受ける生活だった。大変だったのは昼と夜のギャップ。授業内容のレベル差が歴然で、必死に喰らいつくだけだった。この時期ほど勉強したことはない。
予備校生の中には東京大学を受験する人もいて、そんな人たちの中で揉まれながら勉強ができたことは、振り返ってみれば恵まれた時間だったと思う。Kくんという進学校の男子生徒がいて、僕の憧れだった。その人を目指していた。
#18
「東京阪クラス」という東京大学、京都大学、大阪大学を目指すクラスの一つ下のクラスで僕は受験勉強に励んだ。講師に指名されても的外れな回答ばかりしていて、ポンコツもいいところだったと思う。笑われた。それでも僕は足掻いた。
8月の終わり頃から食欲不振や吐き気、嘔吐などの症状が現れるようになってきた。気持ちも塞ぎ込むようになった。母の勧めもあって学校近くの心療内科の初診を受けることに。僕と精神医療の最初の接点は、18歳の夏頃ということになる。
医師の見立ては受験のストレス。僕自身もそう思っていた。高校のイベント(文化祭のようなもの)で重要なポジションを任されたりしている中で、予備校の高度な授業についていくための勉強。歪みが生じるのは最早必然的だったと思う。
診断は「抑うつ状態」だった。医師からそれなりに薬も出されていた。精神科の薬に対して抵抗がなかったわけではないが、早く楽になりたかったから決められた量を守って服用していた。騙し騙しで受験戦争を、自分なりに戦っていた。
幸運なことに、第一志望としていた大学に合格。家族も先生も祝福してくれたし、僕もやっと肩の荷を下ろすことができた。不合格の先に何も思い描けるものがない、というくらいには自分を追い込んでいたものだから安堵の息をついた。
しかし、状態はやや良くなった程度で、メンタルの状態は良好ではなかった。形容するのが難しいが、心が焼き切れた感じがずっと続いていた。焼き切れてしまって、枯れている。イメージは荒野。それ以上の説明は、僕の語彙では難しい。
忘れられないのは、卒業が近付いた或る日の数学の授業のこと。なんと余弦定理が初登場したのだ。高校3年生の最後にして、やっと。長かった。そんなの、とっくに授業外で勉強した。予備校との差が苦しかった。ずっと泣きたかった。
高校の先生たちは良くしてくれた。不登校で何も持ち得なかった僕を、ここまで育ててくれた。不満なんてあるはずがない。ただ、僕は孤独だった。ずっと孤独に押し潰されそうだった。孤独感は、卒業後も何故か消えることは無かった。