大森靖子と私
アイドルが好きだった。国民的アイドルが好きだった。キラッキラッの笑顔が好き。あの笑顔は、何百万人のファンに向けて、そのうちの私に向けれられているものだと思っていた。それは今も間違いではないし、買い被りでもない。今でもアイドルは大好きだ。
でも、靖子ちゃんを見つけてから、私もこれほどまでに自分に、自分が、自分を歌ってくれる他人がいたんだ、と心から思った。それはもう、強烈に鮮明に、一面の赤。赤。赤。肉。血。体。赤。赤。赤。
靖子ちゃんを好きになった私は、札幌のライブハウス、道内のフェス、そしてカラオケイベントまで行った。熱心ではないが、自分の時間をお金を消費できるタイミングでは欠かさず行っていた。でも、不思議なことに近すぎると、靖子ちゃんに対する神様のような信仰心は薄れる。あ、靖子ちゃんも人間だ、と思う。逆に、ライブ会場で後ろからほんやり見ているとき、あ、やっぱりこの人は、神様だ、いや、女神だと思う。
「靖子ちゃんはいつか人と向き合いすぎて死ぬんじゃないか」というコメントをしている記事を見た。ライブハウスで自分の歌っている目の前で興味なさそうに携帯触っている人を見つけて、怒ってギターを地面にたたきつけたらしい。そんな本当か嘘かわからないエピソード、でもやっちゃいそうだなと思わせるのが大森靖子だ。私は靖子ちゃんのパワーにいつも魅せられる。怒ったり泣いたり死んだり生きたりする激動のパワー。靖子ちゃんが日本にいるうちがまだ大丈夫、まだ女の子は生きていける、なんてポエムを唄ってしまうのだ。
靖子ちゃんにもし会えたら、話せないけど、実際きっと言えないけど、会えそうだし、言えそうだけど、無理だけど、「絶対死なないで」と伝えたい。
女の子を救えるのは両親でも、友達でも、彼氏でも、お金でも、資生堂でも、シャネルでも、インスタでもない。音楽でもない。女神でもない。なんでもない。自分でしか救えない。自分でしか意味がない。それを靖子ちゃんの声を聞くたび、音楽を聞くたび、私は自分を奮い立たせられるよ。
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