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明智光秀で考える🤔~新説!山崎の戦い!「人生を賭けた計画が大滑りした時」~

先日の蒲生氏郷を書いた私のnoteに、小学生の男の子(景虎号くん)がスキ♥️をくれた!
ありがたいことである。
そんな彼のnoteに、山崎の合戦を囲碁を使って再現している記事があった。で、「どうしたら、明智光秀は勝てますか?」と言う質問!
明智光秀ファンとしては、とても嬉しい。☺️思わず勝たせてみせようと考えた🤔
で、誰かのコメントにもあったように、「天王山自体は、以外と戦いに関係してないんだよ」と…
これには私も同感で、むしろ私は、明智光秀が天王山を取られることさえ想定していた可能性も感じるんだが?それは、また後程…。
で、囲碁盤には再現されていなかったけど、実は山崎の土地は、三川合流地帯(木津川・宇治川・桂川=淀川)と言って、川が3つ合流する川幅の広い地点で、広い湿地帯と大きな沼のある土地になっていて進軍しにくく(されにくい)、またこの地域には、当時は橋もなく、今でも橋は少ない(枚方大橋と御幸橋の二本しかない)ので、河内側(大阪の内側)や大和(奈良県)からの加勢が難しい地形なんだ。だから、山崎の戦いは、天王山を取るか、取られるか?だけでなく、この川側をどう利用(制圧)するか?も、重要なポイントになるんだよ。

☝️攻城団さまのHPより転載

🌟ここから光秀の「人生を賭けた計画(新説)」に入って行きます。が、内容はあくまで私の解釈でしかありませんから、ご承知ください🙇しかも、今回は文章も長くなります。覚悟のある方のみ先に進んでください🙇

まず、明智光秀の山崎の戦いに関連する今回の検証のデータを見て行きます。

①光秀は、野戦より城攻めや籠城が得意(経験豊富)。また、鉄砲隊の精強さは有名。

②光秀は、京都奉行の経験もあり、都やその周辺一帯の税金や産物に詳しかったはず。

③光秀は、山崎の合戦前に、洞が峠と言う峠まで、加勢に来るはずの、大和の大名「筒井順慶」を出迎えに来ていた!という言い伝えがある。

④天王山は低い山であり、これのみを持ってこの方面の敵の侵入を防げるとは考えにくい。

⑤天王山の麓の町は、当時、油問屋ひしめく有名な町屋であった。

⑥天王山の戦場の反対側(天王山が右翼なら、その反対の左翼)は、三川合流地点で巨大な川と、湿地帯+沼を形成している。川の向こうから(大和方面)の援軍は通常期待できない。

⑦また、⑥による特殊な地形効果により、空気中に水分が多く、霧や小雨が発生しやすい地形である(今も同様)。

⑧山崎の合戦の地の対岸には、橋こそ架かっていないが、「橋本の渡し」という、渡し船の湊が存在していた。

⑨山崎の合戦の地の中央、円明寺川の直ぐ後面には、戦場全体を俯瞰できる土で盛られた、前衛基地(本軍野営地)を光秀は造り、更にその後ろには、勝竜寺城を配して、持久戦も可能な態勢を整えていた。


ここから、明智光秀の人生を賭けた計画(新説)‼️を検証して行く!


まず、従来言われているように、「天王山を先に秀吉に取られたから負けた」という部分だが、確かに上記陣形図で言う光秀側の陣形は、山の地形効果を期待して敵を隘路に誘い込んでいるが、だ?

見たこと、あるいは登ったことのある方なら分かるのだが、この天王山は、「そんなに険しい山ではない」のだ。しかし、地形、光秀の陣形を見ると…
「お、天王山を越えて敵を突けば、これ勝ちじゃない?」と誰しも思う。もちろん、秀吉側も思ったはずだ。
でも、明智光秀は「天王山を空けた」、確かにデータ①のように野戦経験は豊富ではないにせよ、天王山の価値を解らない武将であろうはずがない!光秀はデータ④の、この山だけで防げるとは思っておらず、何か策を巡らせたのではないか?という説はどうだろうか?

「わざと秀吉側が天王山に入るように仕向けた?のではないか?」という新説!

これの根拠は、データ⑤の、当時、この山崎の地が、油問屋ひしめく有名な場所であったことだ(油の神様さえ近隣に祀られている)。近年山火事の脅威が話題になっているが、この油を使って人工的に天王山を麓(下)から焼く!戦国系シミュレーションゲームで言うところの「火計」をしようと考えたのではないか?と思うのだがどうだろう?もちろん、山火事のように激しく燃えなくとも、かなりの煙がでれば良いので、後は、敵が後退するか?無理に煙に巻かれながらこちらに下山しようとする敵を得意の鉄砲で狙い打てば、天王山側の戦場は登らずとも光秀側の勝ちとなる。
また、データ②の通り、京都の町奉行をしていた光秀が、都の明かりを支える油がどこに集積されているのかを知らないはずがないだろう。


だが、現実は光秀の更に上をゆく、データ⑥の山崎の特殊な地形は、データ⑦のような水分の多い土地柄を生む。早く言うと湿気が酷い。だから、出火しにくいと考えれば、油問屋が集まったのも、自然なことかもしれないが、とりあえず霧や小雨が発生しやすい。実は、私の母校が天王山にあったので、これらは私自身、実体験済みで力強く言えるのだ。

と考えた場合、天王山は材料的に火計に適した場所であっても、地形的には火計に適さない場所であったことがわかる。
もちろん、晴れて乾燥した日も山崎にはあるが、残念、山崎の戦いは、梅雨頃に行われている。
光秀の火計の計画は大滑りしたことになる。

さて、次は反対の川側の戦場に目を向けてみよう。

まず、この周辺は、データ⑥の状況である。この状況から、戦況はせいぜい両軍固定化する程度かな?と思いきや、この地域には、伝説でデータ③の言い伝えが存在する。援軍の入れない方面から来る大名に、わざわざ忙しい最中の光秀が、期待していた味方とは言え、自ら出迎えに行くだろうか?
そう、これは何か秘密があるのではないか?と考えた!
それが、データ⑧の存在である。

☝️の地図を見てもらいたいのだが、山崎の戦いの川側の対岸に「橋本の渡し」という、渡し船の湊が存在している。
また、地図上にはないが、地図の右上部の切れた部分直ぐには、データ③の「洞が峠」が存在する!

「皆さまは、お気付きになられただろうか?」

そう、「もし舟さえあれば、筒井順慶の軍は川を渡れる!直接参戦できる」と言うことである。
で、わざわざ光秀が、筒井順慶を迎えに来ていたとするのであれば、のんびり待っているはずはない。
あるいは、舟やイカダを大量に造り、どこかに隠して、現地の部下に直接作戦を伝えた?のではないか?
その作戦が、「三川渡河上陸作戦」(仮)である。
援軍に来た、大和の筒井順慶が舟やイカダを強襲揚陸挺にし、山崎の戦場の側面を突く、ないしは、後方に上陸して前後で秀吉軍を挟み撃ちにする!

しかし、現実は筒井順慶から見放され、援軍は洞が峠に来ることはなく、作戦は成立しなかった?
もちろん、来たとしても、そんなタイミング良く、筒井順慶が来援することはないので、光秀はデータ⑨の態勢を整えて、多勢に無勢であっても、少しでも持久戦で耐えようとしたのではないか?

と言う新説なのですが、いかがでしょうか?
内容としては、明智光秀のこの計画(作戦)は、ことごとくの大滑りではありますが、従来の戦術解釈より、なんとなく勝算が見えて来ませんか?
あの明智光秀が皆がわかるような地形効果だけを利用して、普通に秀吉とぶつかって、各個撃破を狙うとか、私はないのではないか?と思うのですが…💧

ただ、この一瞬勝ちそうな新説でも、やっぱり大滑りして負けるんですよね。だから、人生、ホンマに計画をしっかり練る!これ、大切です!でないと、光秀みたいに討ち死にしたり、私みたいに無職になったりします💦

景虎号くん、人生、計画が大切だ☺️

で、そんな人生を賭けた計画が滑った時はどうするか?
もう、悟りを開くしかないんだよ、神か仏にすがる。
そう、討ち死にしたはずの明智光秀も、復活して天海上人になったよね!
私もそろそろ、神か仏にすがるとしましょうか…💧


※今回は長文を読んで頂きありがとうございました。内容は、あくまで私の仮説というか、見解でありますので、ご理解くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。