蒲生氏郷で考える🤔~いいポジションとは~
今回は、蒲生氏郷。またマイナーな戦国武将を持って来たな!と思うかもしれませんが、この蒲生氏郷、そんな小物ではございません。まず基本データから。
・血統は藤原氏の末裔。
・所領は会津90万石。(最終的)
・若い頃は、織田信長の直臣。
・奥様は、織田信長の娘。
と、まあ、なかなかのキラキラぶり!
かの、織田信長からは、「その目つき尋常の者にあらず」と言わせたとか、豊臣秀吉には、「蒲生を都の近くに置いておくのは危険だ」と、無理やり所領の配置換えをされた。など逸話に関わる人物もビッグネームです。
そんな蒲生氏郷、上記で書いたように、豊臣秀吉から命令がくだります。
京の都の周辺の、小さい所領から、一気に会津(福島県)数十万石に栄転!というものです。でも、何故だか氏郷、その後、「柱の陰で泣いた」そうなんです。周りの皆は何故だか分かりません。で、周りの皆は勘違いして、「嬉し泣きですか?分かります分かります。」と、おめでとう扱い。
ところが氏郷、「そんな都から遠い所に行ってもうたら、もう天下も狙えへんわ…」と言います。
秀吉には、氏郷の心中が見えていたのでしょうか?
もちろん諸説あるので、真相は分かりませんが、「土地の単価が違うから?」という単純なお話ではないことは、わかりますよね?もっと人間臭い問題…。
これは、明らかに「栄転に見せかけた左遷だ!」ということなんです。秀吉は徳川家康の江戸転封など、ちょいちょいこの手口を使うんです。
さて、ここで今回のお題「いいポジションとは?」について考えてみたいと思います。
今回の氏郷を例にすると、「いいポジションって、見方によってまるで違う」ということなんです。大切なことは、この見方なんです。
実は氏郷、若い頃にあの「本能寺の変」を経験しているんですね。彼の父親の所領が近江日野(滋賀県)という、織田信長の居城「安土城」の近くに位置し、本能寺の変直後には、信長の家族を安土城から保護して、自分の城に避難させています。
その後、安土城に入った明智光秀の右腕である、明智(左馬助)光春と地理的に対峙する形となり、天下分け目の「山崎の合戦」に光春が参加出来ないという影響を与えています。(明智光春が山崎の合戦に加わっていれば、あるいは歴史が変わっていたかもしれません)
で、この状況。見方によっては強大な敵と対峙し、絶望的な状況ですが、蒲生親子にとっては、チャンス到来に見えたのではなかろうかと?
手元には主君の家族、今いる場所は、京の都からほど近い!
明智光秀と羽柴秀吉が共倒れでもしたら、天下は誰が取るのか?あるいは俺が?と、思ってもおかしくない状況です。いいポジションにいるじゃないですか!
でも結局は、合戦一日で秀吉が明智光秀に勝って、このポジションも無くなるのですが、これの再来を蒲生氏郷は狙っていた?そして、そのことを天下人の秀吉も理解していたのではないかと?
皆には見えない、できる二人だけに見えた最高のポジション(京の都のほど近く)とその奪い合い。これが上記で私が、「栄転でなく左遷だ!」という理由です。
結論として、「いいポジションは見方で変わる」。
皆が良いと言っていても、良くない場合がある。
また、絶望的な状況でも、最高のポジションに立っている時がある。
これが「蒲生氏郷から考えた、いいポジションについて!」でした。
諸説ありますので、そのあたりは、ご理解ください。あくまで私の見解です。☺️
※父の死後、蒲生氏郷は近江日野から伊勢松坂(三重県)に配置換えされ、会津に配置換えになる前は、伊勢松坂を所領しております。それでも、会津より伊勢松坂の方が京の都にほど近い、ということを追記しておきます。