ある板前の死より~⑩自死へ(明けの明星)~
「そんなこと、あるわけ無いだろ!無いだろ!」
ガシャン、バリンッ、ガシャンッ!
店主は、茶碗から鍋から皿から、目に入ったモノ全てに当たり散らした。
確かに妻は美しかった。本当に好きだった。他の男たちに見られるのさえ、店主は嫌だった。
だから、店の手伝いもさせなかった。嫉妬深いと言われればその通りだったが、まさか、それが逆に作用して、自分の仲間である板前とそうなるなど、思いもよらなかった。
「いつだよ!どこでだよ!いつからだよ!」
自分が知らない間に、何が行われていたのか?仕入れに出ている間なのか?ランチ後の仮眠を交代で取っていた時か?その場所は店の個室か?あるいは板場内でか?自分にとって神聖な板場という場所が、地に堕ちたような感じがした。
いや、でも…
まさか、俺たち家族の二階に上がってか?寝室?
それだけは、考えたくなかった…
まだ結婚前に、紹介を兼ねて三人で飲みに行ったこともあった。そう考えると、問題は行為そのものだけでなく、時期も問題になって来る。義母の話しではないが、あながち自分の子ではないかも知れない…
「バカにするな―!クソ―!ウッウウッ、ウッウッ…」
店主は数ヶ月間の音信不通と義母の一言から、妻と子どもが帰って来ないと歪んで確信してしまっている。
いや、それよりも悪いことさえ、誤って確信に変わろうとしていた。
夜には来店する客の姿もあったが、暖簾が掛けられていないことと、灯りが点いていないことで、開店していないことを悟り、店の前に立つこともなく、早々に帰って行った。
誰にも起こされることはなかった。店主はカウンターで僅かだが、ここ数ヶ月の内で、最も眠れた夜を過ごせたようだった。
そして明け方、店主は目覚める。目覚めると、また負の思考がスパイラルした。もう、終わりにしたかった。カウンターでうつ伏せていた店主が、ふっと見上げた方向には、板場奥の開いたままになった勝手口が見えた。
そこからは、ちょっとした物置と脚立、店の自慢でもあった桜の樹が、まだ明けの明星が残る早朝の中に、チラリと見えていた。
終
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
次回、最終回で【その後…】として、現在の店舗とその近辺について語ります。
次回も、よろしくお願い致します。