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“対話”が生み出す“タブー”の存在に気付かないフリをしない宣言

おはようございます。
いい加減広さを表すのに東京ドームを使うのをやめてほしいと思う三科です。吹一公園何個分とかやったらわかりやすいのに。


今日は“対話”について。

耳どころか脳みそにタコができるくらいよく聞くこの“対話”ってやつ、皆さんどう思いますか?

どこかでひずみが生じていて、話し合いをした結果「やっぱりお互いの想いを言い合うって大切だな」と思うことはよくあります。

また、「それって子どもの想いとか意見を確認しました?」と先生や保護者に聞くと「は!ついついそこをないがしろにしてしまう自分がいます!」なんてこともあったりします。

基本的に一方的に思っていることをさも相手も同じだろうという前提で物事を進めたり、逆に「あいつはあんな性格であんな言動をとったからこう思っているに違いない!」と決めつけてゆっくり想いを聞くと全然違って後悔するなんて経験は誰にでもあると思います。

だから“対話”って大事だよねって意味は経験則でわかります。

でも僕は、いつでもどんな時でも“対話”“対話”って言うのにも違和感があります。

理由は簡単です。

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不登校の子どもたちの成長やフリースクールでの出来事を三科目線でお伝えします。また、個人の想いもたまに書きます。

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