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人を信じるということは、自分を信じることだと思う。
先日、ある企業の方に、内定をいただきました。
ちなみに、就活っぽい面接はしてません。
イベントで出会った社長さんに、わたしの直感が話したいと言ったので、
交流会の時間に名刺交換をし、2日後に会社に伺い内定をもらった。
あまりにも急な展開だったので、いわゆる普通にある内定書?や労働条件は分かっていない。口約束だけの内定。
それ、大丈夫なの?と言われるが、わたしは大丈夫だと答える。
なぜなら、わたしの直感が大丈夫だと言っているから。
数時間、お話させてもらったときに、わたしは「この人と一緒に頑張りたい」「この人のために頑張りたい」そう本気で思った。
これは、相手がそうさせているのかもしれないけど、わたしの実体験も大きな影響を与えていると思う。
大学4年間、いや生まれて22年間、多くの人と出会ってきた。特性上なのか、ヘラヘラしているようにみえる自分の性格なのかわからないが、他人から嫌なほど影響を受けてきた。人に流されながらも、自分の軸を持ち、人と接していたように思う。
ある時は、ガッツリ勧誘されかけたし。
ある時は、この人全くわたしに興味を持っていないんだろうと思うような態度を取ってくる人もいたし。
この人にわたしの声全く届いていないな~と、思う人もいれば、どんだけ話を聞いてもその人の価値観を理解できない自分に出会ったりした。
そんな状態が続いていた大学2年生?20歳になるかならないか辺りの自分は、誰にも自分の声は届かないし、自分には誰の言葉も刺さらないと自分を否定することで、自我を保っていたように思う。
その度に、あの人との会話の時の自分の接し方は正しかったのか?もっとこうすればよかったんじゃないか、自分のこんなところがダメなんじゃないかと自己否定型の対話を繰り返していた。そんな対話に没頭し、家にどうやって帰ったのか分からなくなることも。(無意識に帰宅することは今でもある。)
それでも、わたしはめげなかったので、色んな人に会い続けた。大学の同級生・部活の先輩・起業家・カウンセラー・バーにいたおじさん、バイト先の先輩などなど…。
色んな人に会ううちに、自分の中で合う人・合わない人センサーが作動するようになった。
この人はわたしの言葉が通じる人だと思えば、自分の中にある分厚い壁を自分から壊す作業をする。
この人とわたしの言語、価値観が違うと思えば、壁を張ったままで。この人に自分をさらけ出していいのかを疑いながらコミュケーションを取る。
無理だと思えば、よそ行きのわたしのままでいいし、合えば壁を壊した素に近い状態(自分の素というものは自分でもわからないのであえてこういう表現に)を見せていけばいい。それだけのハナシ。
こういった判断が人と合えば合うだけ、正確なものになっている気がする。理解されなくて孤独だと逃げなかった過去のわたしを今は誇りに思う。
最近でいうと、詐欺?っぽい話に勧誘をされかけた。1時間ほど話を聞いていて、この人の本心がどこにあるのか全く見えないな~と思っていたら、最後にちゃんと高額のセミナーの勧誘を受けた。
他にも、関わるのをやめた人で言うと、相談のってあげるよとめちゃくちゃぐいぐいくるから相談しに行ったら、自慢話と経験を語りたいだけの人だったり。そんなこんなで距離を置く判断をした人が何人もいる。
色んな人に、ヘラヘラしていて隙があると判断されることも多いが、表面上のわたしの人格がわりとそっちよりなだけで、頭の中では結構考えていたりする。(たまに、その思考を露出させてくれる相手もいたりするけども)だから、あんまり危ない人にどっぷりハマるみたいな経験はまだない。
何が言いたいのか分からなくなってきたが…。人を信じる云々の話でいうと、相手を信じることは、この人を信じてもいいと判断した自分を信じることなんじゃない?ってこと。だから、もし自分の判断が違い、その人と良好な関係を築けなかったら、その人を信じた自分を疑えばいいと思っている。
これ、芦田愛菜さんの有名な言葉も同じ解釈な気がする。
その人のことを信じようと思います』っていう言葉ってけっこう使うと思うんですけど、『それがどういう意味なんだろう』って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな』
相手を100%把握することはできない。だから、自分で相手を想像し判断することしかできない。この場合において、過度な期待をし、裏切られた場合は、自分の妄想力を褒め称えればよいのだと思う。もしくは、判断をどこで間違えてしまったのか、自分に焦点を当てることで、人間関係における傷つきは減少すると思っている。
だから、冒頭で触れた「内定先の詳細出てないの大丈夫なの?」云々の話においては、わたしがこの人を信じたいと思ったから大丈夫なのだ。もし、大丈夫じゃなかったとしても、自分の中の"壁をなくすセンサー"の精度があがるならそれでいい。
そう捉えることで、人間関係を上手く築くことが出来るようになったなという振り返り。
最近は、まだ22歳なことに絶望していることが多い。人生100年時代なのであれば、あと80年も生きなければならない。秒にするとどれくらいなんだろう…。数えたくもないが、そんな絶望を通じて、わたしの命は自分のやりたいことで消費していこうと軽めの決意をした。
まずは、4月から、いや来月?から内定先の社長さんのもとで、自分のやりたいことを実現していく予定。それから先のことは一旦考えないようにしている。長い将来を見据えて絶望するより、目の前の楽しみなことを考える方がよっぽど楽しい。
わたしは、わたしが信じた人に囲まれて、今を生きることを望む人間。ただ、それだけ。