『THINK BIGGER「最高の発想」を生む方法』日本語版訳者あとがき
世界に何かしらの爪痕を残したい――そう思いながらも、よいアイデアがなかなか頭に浮かばずに悩んだことはないだろうか? また、たとえアイデアを持っていても、本当に追求する価値があるアイデアなのかどうか、判断に迷って足を踏み出せなかったことはないだろうか?
ビジネススクールでは、そうしたすばらしいアイデアが「すでにある」という前提で、カリキュラムが進んでいく。またアイデアを発想するための手法はいろいろ開発されているが、偶然のひらめきに頼るものや、発想の幅が狭かったり、質が低かったりするものが多く、本当に役に立つとは言いがたい……。
世の中を変える革新的なアイデアが必要とされているこの時代、なぜもっと体系的に、そして確実に、よいアイデアを生み出す方法がないのだろう?
この当然の疑問に応えて生み出されたのが、本書のタイトルでもある、"Think Bigger"(もっと大きく考える、大胆に発想する)という手法だ。それも、ただの「よいアイデア」ではなく、「大きなアイデア」――つまり、新しい価値を生み出し、人の役に立ち、そしてさらにスケールして世界にインパクトを与える可能性を秘めたアイデア――を、一から意図的に生み出し、磨き上げていく方法なのだ。
現代の賢人
Think Biggerを考案したのは、コロンビア大学ビジネススクールのシーナ・アイエンガー教授。彼女には、「慧眼」のひと言がふさわしい――たとえ目が見えなかったとしても。アイエンガー教授は3歳のときに遺伝性の網膜疾患と診断され、高校に上がる頃には完全に失明してしまう。だが教授はこれまで、誰の目にも明らかなのに見落とされている、「考えてみれば当たり前」の疑問に鋭く迫り、鮮やかな方法でくり返し答えを示してきた。今では何か大きなできごとや変化が起こると、きまってメディアから意見を求められる存在である。教授が世界に最も大きな影響をおよぼした経営思想家、“Thinkers 50”に何度も選ばれているのもうなずける。
アイエンガー教授を一躍有名にしたのが、あのジャムの実験だ。
モチベーションの研究をしていた大学院生時代、「多くの選択肢の中から選べる自由がモチベーションを上げる」という、心理学の定説中の定説に、ひょんなことから疑問を持った。今から年ほど前、アメリカがまだ自由と経済的繁栄を謳歌し、選択肢は多ければ多いほどよいとされていた時代のことだ。選択肢は本当に多い方がよいのだろうか? 選択肢が「多すぎる」場合があるのではないだろうか?
食料品店に6種類と種類のジャムを並べたところ、6種類の方が倍も売上が多かった。多すぎる選択肢がかえって購買意欲を削ぐことを示した、この単純な実験は、世界に一大センセーションを巻き起こした。「選択肢が多すぎると選べない」という選択のパラドックスは、今では常識となり、マーケティングをはじめあらゆる分野に応用されている。
選択の力
アイエンガー教授はこの研究をもとに、選択をさまざまな視点からとらえた前著『選択の科学』(文春文庫)を上梓し、世界中で大きな話題を巻き起こした。英語版原書はフィナンシャルタイムズと米アマゾンで2010年のベストブックに選ばれ、本を紹介するアイエンガー教授のTEDトークは全世界で合計700万回以上視聴されている。日本でも刊行されるやいなやメディアに大きく取り上げられ、その関心の高まりから、ついにはNHKで「コロンビア白熱教室」としてテレビシリーズ化される運びとなった。単行本・文庫本合わせて累計20万部近くを売り上げ、今も版を重ね、メディアに取り上げられれば瞬時に店頭から消える、お化け本である。
『選択の科学』では、とくに服装や食べもの、果ては結婚相手まで自分で決めることが許されない、厳格なシーク教徒の移民の家庭で育つも、アメリカの公立学校で「選ぶ」ことの力を教えられたという、アイエンガー教授の生い立ちが語られ、脚光を浴びた。何よりも、「今の自分」から「なりたい自分」になるための唯一の手段が「選択」である、という力強いメッセージが、人々の心をとらえた。
つまり選択とは、誰かに与えられた選択肢の中から選ぶことだけではなく、自分で選択肢を生み出し、選び取ることでもあるのだ。まったく何のロールモデルもいない中で、心理学者になり、「選択」を研究分野として選び、ビジネススクールで教え、多くの企業のコンサルティングを行うなど、道なき道を1つひとつ自分の手で切り拓いてきた教授の言うことには重みがある。
そしてその方法を教えようというのが、本書なのだ。
THINK BIGGER
『選択の科学』が選択にまつわる問題を「説明」する本だったのに対し、本書『THINK BIGGER「最高の発想」を生む方法』は、選択肢を生み出すために具体的にどうしたらいいかを手取り足取り教える、徹底して「実践的」な本である。
「創造とは、脳内に蓄積した記憶の断片を組み合わせる行為」という神経科学の知見と、心理学や経営学の研究、そして個人的な経験をもとに、9年の歳月をかけて完成された手法を、古今東西の美しい例を挙げながら説明してくれる。すばらしいイノベーションも、元を正せば古いものの組み合わせから生まれた。そのやり方さえ身につければ、誰でも確実に、大きなアイデアを生み出せると教える。
そしてそこには一貫して、人がどう「見るか」という、客観的な視点がある。「どういうアイデアができたら理想的か?」「どういうアイデアが求められているのか?」という最終形態を念頭に、アイデアを精密に練り上げていくのだ。
教授はこれを、ブレインストーミングに代わる、新しいアイデア創出法と考えている。ただし、本書を通して最も伝えたいことは、「選択は慎重に」だそうだ。生まれたアイデアに飛びついて、すぐに実行に移したくなるのはやまやまだが、大切なのは時間をかけて成功確率の高い、手堅いアイデアを構築していくことだ。
Think Biggerは、コロンビア大学ビジネススクールで教えられるやいなや大人気講座になり、今では多くのMBAやエンジニアが、これをもとにイノベーションを生み出している。
そのカギは、また教授の慧眼の秘密は、「心の眼」にあるのではないかと思う。教授は頭の中であらゆることを視覚化するそうだ。驚かれた方も多いと思うが、本書はまるで自分の目で実際に見たかのように、状況を細部まで鮮やかに説明している。記憶の断片をもとに、つじつまが合い、自分の納得できるかたちにすべてを改めて再構成する。その過程で、ありふれた風景の中に溶け込んでしまっている真理があぶり出され、おのずと「見えてくる」の
ではないだろうか。
本書では毎日の生活にも取り入れやすい、斬新で役に立つエクササイズもたくさん紹介されている。日常生活や社会をよりよくするために、是非これらを使ってアイデアを生み出していただければ幸いである。
最後に、私が人生や生活で迷うとき、いつも心に浮かぶ心象風景がある。13歳の時にお父様と死別されたアイエンガー教授は、同じく目の見えない妹さん(現在は弁護士、起業家として多方面で大活躍中のジャスミン・セティ氏)とともに、これからは自分の足で独り立ちする方法を考えなさい、とお母様に言い渡されたという。視力を失いかけ、経済的に困窮し、普通なら絶望して途方に暮れるかもしれないそんな状況で、幼い少女が「自分で選べる」喜びに心をときめかせ、実業家になったらどうかしら、パイロット、それとも医師? と目を輝かせながら考えていた。その姿を思うたび、胸が熱くなるとともに、勇気を与えられる。最初からできない、無理だと決めつけてはいないだろうかと、折に触れて自分を戒めている。
NewsPicksパブリッシングの富川直泰氏には、アイエンガー先生の本を再び訳す機会を与えていただいたうえ、時間が押す中、あらゆる面で手厚くご支援とご指導をいただいた。Think Biggerでいう、「第三者」となり「第三の眼」となって、本書の実現に大きく手を貸してくださったことに、この場をお借りして心から感謝申し上げたい。
2023年10月
櫻井祐子