卒業論文~哲学エンジニアのライフヒストリー(4)~
連載を開始したライフヒストリーの執筆であるが、「虚無の淵に立っている」が一つのキーワードとなっている。
私は金沢で一人暮らしを始めた大学時代はずっと不安と虚無感を抱えていたような気がする。漆黒の不安を見ると感性がヒリヒリするというか、心がいつも痛んでいた。
前回も書いたが、その虚無感を癒すために、語学の勉強は実に役立った。ロジカルなドイツ語の文法や、複雑な古典ギリシャの初級文法を追いかけていると楽しくて気がまぎれるのであった。
しかし、そうこうしている内に学部3回生となり、後期には卒業論文の計画を立てなければならなくなった。大学院の修士課程までは進み、そこまで行って哲学研究者の才能がなければ、ドイツ語の経験が生きるような会社に就職できればと願う、今にして思えば生ぬるい考えを持っていた。
97年の3月に卒業した私たちの学年は4回生の時に最後の就職チャンスであり、97年の4月に消費税5%に増税して、その後に金融危機があり、就職氷河期が本格化することになるのだが、そのことは後で触れることにしよう。
とはいっても、大学院には進学したいと同時に、前回にも書いたように自分の実存の一大事である虚無感に哲学を通して光を当てたいと願っていた。それにぴったりだったと希望を託したのが、ハイデガーの『存在と時間』(Sein und Zeit)であった。
実存、気遣い、不安、退屈、世人、先駆、決断、遺産、運命と宿命・・・私が抱える不安の意味を解き明かしてくれそうなキーワードが並んでいる。主観的なファクターを、哲学史の文脈の中で位置づけてくれそうな予感に導かれて、憑りつかれたように読み進めていた。
技術者であった父が、ドイツ出張時に買ってきてくれたMAX NIEMEYER社版で読み進めた。95年頃の購入なので、当時のマルクの価値は把握できないが、2000円弱であったと記憶している。当時の円高の恩恵を受けて、一ページずつなめるように逐語訳して緻密に読み始めた。
しかし、主観的な動機で始めた勉強は、当然ながら客観的な位置づけが極めて困難になる。
ハイデガーは人間存在(現存在)という地平から存在の意味への問いを立てようとしたわけで、有限な人間から見る存在は当然時間的な性格を帯びるわけで、『存在と時間』というタイトルになるのは必然である。永遠自立と見られた存在に対して、それを掘り崩すような時間という地平から問いを立てることによって、哲学史の解体という壮大な企てをしていたわけだ。
しかし私は、そのトータルなハイデガーの目論見の中での主観的な気分を過大に見積ってしまった。主観的な気分はもちろん、存在の意味への問いかけとしてラディカルな問いかけの糸口にはなりうるが、その問いかけは私が抱える不安の意味付けにはなりえないのである。
ハイデガーの迷宮に迷い込んだ不安が、私がもともと抱えていた不安に拍車をかけて、卒論はどんどん支離滅裂なものへと化していった。哲学史の歩みに対して主観的な霧を吐くハイデガーは青年をダメにする要素がある。彼は、南ドイツの「黒い森(シュバルツバルト)」のトートナウベルクという地に、三部屋からなる山小屋を建て、晩年までこの山小屋に滞在して執筆しいたが、まさに黒い森の漆黒に包まれてしまうのである。
これだったらプラトンで卒論を書くんだったと後悔をし始めてもいたが、もはや歩み始めた道を引き返せない。「ハイデガー『存在と時間』における不安と先駆的決意性」というタイトルは早い段階で決めていて、当初は客観的なアウトラインとそれに対する注釈との照合、そして可能ならばそれに対する自分のオリジナルな見解という計画を立ててそれに沿っていたのだが、オリジナルな見解に照準を合わせている内に、その分量をどんどん膨らませてしまい、なぜか西谷啓治のニヒリズム論にまで到達してしまった。
そこまで行ってしまったのも、やはり私の中に巣食う虚無感が押さえつけられないくらいに膨らんでしまったからである。「虚無の淵に立っている」がこのライフヒストリーの一つのキーワードとなっているが、この支離滅裂な論文を書き終えた瞬間に虚無の崖の中に突き落とされたような気分になった。
虚無感という点では一貫性があるのだが、しかし、これでは誰が読んでも理解できない代物になっていた。自分でも唖然呆然とした。
こんな拙い卒論を抱えて、大学院進学のための院試験を京都と福岡に受けに行くこととなる。その辺りの事情を次回に語ることとする。
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