回復へのプロローグ~哲学エンジニアのライフヒストリー(9)~
長らく休止してしまい、年の瀬が近付いて更新しようというきっかけが与えられた。人工知能の使い方が分かってきて、創作意欲がわいてきた点も大きいのだろう。
98年の4月に転地療養を行い、「海の病棟」に3か月ほど入院していたが、捗々しい回復を果たすことはできなかった。
その悔しさと無力感は、心の奥深くに重くのしかかっていた。京都に帰ってきた後、最初に行った精神病院の待合室では、松坂大輔がPL学園との伝説の準々決勝の一戦が放映されていた。
甲子園で見せた圧倒的な活躍は、私にとって非常に衝撃的だった。彼の姿が輝くように見え、周囲の人々が彼に注目し、歓声を上げるその瞬間、私は自分の無力さに苛まれた。なぜ自分はこんなうつ病に苦しんでいるのだろうかと。彼の成功と私の無力さの対比に、心の中でさらに深い悔しさが湧き上がった。
京都に帰ってきてからの私の心の支えになったのが、当時ベストセラーになっていた五木寛之『大河の一滴』だった。哲学研究に打ち込んでいた時には見向きもしなかった大衆作家であったはずなのに、近所の今はなき丸山書店に平積みしてあった『大河の一滴』に呼ばれる感じがした。
五木寛之は現代は「心の内戦」であると言っていた。そして、心がカラカラに乾いていると。その時の私にはずいぶん心に染み入る言葉だった。「海の病棟」に入院していた仲間が熱心になって読んでいたのがよく分かった。彼は、その後自殺したことを側聞した。私は生き残ることができた。紙一重だったのだと今にして思う。
『大河の一滴』は今にして思えば回復のきっかえを与えてくれた。苦しんでいてもいいのだ。生きているというのは本当に大変なことだというメッセージが力になった。生きていていいのだと思えるようになった。
そして、もともと通っていたクリニックで、認知療法を勧められたことも大いに助けとなった。認知療法とは、偏った物事の捉え方(認知)を修正させ、より柔軟的で現実的な考え方や行動ができるように手助けする療法で、分析的にものを書いて考えることが好きな私にはマッチしていた。
導きの糸となったのは、下記の書籍である。これを参考としながら、2週間に1回のカウンセリングを受けて認知療法を実践していった。当時相手してくださった精神保健福祉士の資格を持つ2,3歳年上のカウンセラーの方との相性が良かったのも幸いした。お名前を忘れてしまったが、またいつかお会いしたいものだ。小倉隆史や小野伸二のけがの話題など、とりとめのないサッカーの話をしてくれたのもとても救いになった。あの方は命の恩人の一人だ。
うつ症状が高まってきたときに、自分を過剰に責める偏った考え方を記載して、その時の苦しさを点数にした後で、その偏った考え方に対してツッコミを入れて修正したら、その苦しさは何点に減じたかという作業を何週間か繰り返していくうちに、回復が始まってきたのだ。
好循環は始まって、そうすると前から興味を持っていた心を楽しませることに着手するようになってきた。海の病棟に入る前あたりに『長い間』でブレークしたKiroroの楽曲に興味があったので聴くようになり、その素朴なメロディに癒されるようになった。
思い出深いのは『冬のうた』である。うつ病からの回復が始まった98年冬頃にリリースされて、京都の寒空の中でも心が温まるような感じが得られて、回復を始めた私の心の中にエネルギーが充填した感覚を思い出す。
エネルギーがわいてきたところで、運転免許を取ろうと思って動き始めたのだが、それはうまく行かなかった。教えられたとおりに運転ができないと落ち込んでしまい、数日は寝込んでしまいコンビニまで行くのがやっとの状態になってしまった。そこまで心のエネルギーが回復していなかったようだ。
丸山書店とコンビニで思い出したが、近所にドンク北白川店があり、ここでよくパンを買って食べていた。田舎から上洛してきた者にとっては、世の中にこんなにおいしいパンがお手頃価格で入手できるのだと感激したものだ。
うつ病からの回復の思い出を彩るパンの味なのだが、まさかの閉店の一報を受けて驚いている。
一直線には回復しないものの、エネルギーがたまってきたところで、これまでの人生の体験をホームページに公開しようと思うようになってきた。