西洋哲学との出会い~哲学エンジニアのライフヒストリー(2)~
前回から開始したライフヒストリーの執筆であるが、「虚無の淵に立っている」が一つのキーワードとなっていた。
私は、思春期の頃からずっと不安で、それに駆り立てられて哲学にたどり着いたようなものなのだ。何一つ確かなものがないという不安から、確かなものを獲得したいと思って、大学に入って勉強したいと願ったのだ。
私が富山の片田舎を出て金沢大学に入学したのは1993年だ。金沢城のお堀のキャンパスに教養部が残っていた最後の学年で、前期だけお堀の中に通い、後期からは角間キャンパスに通うこととなる。
バブル崩壊はしていたものの、バブルの残り香はあり、不安だから確かなものを得たいと願って勉強する者は今でも少数派だろうが、当時は異色を極めていた。今よりもずっと軽薄で能天気な時代であった。
例えば私が大学3年生の頃、1995年にはドル円相場が80円台に到達したこともあって、空前の海外旅行ブームを迎える。当時の大学生のアルバイト相場が非常に高かったことも相まって、多くの大学生はアルバイトに励み月に20万円稼ぐ者が結構いた。それを元手に海外旅行に行くのだった。関西国際空港が1994年に開港したことも拍車をかけた。金沢から海外旅行に行くのは関空からであった。
ジュリアナ東京が隆盛を極めるのが1993年前後で、場が荒れたことによって94年に閉業するのだが、これもまた当時のユーフォリア状態を象徴している出来事である。金融経済としてのバブル崩壊は90年頃であったので、金融経済と実体経済の微妙なズレも興味深い。ただ、就活市場が厳しくなったのは体感的には、円高が進む95年よりは前で94年頃ではないかと思う。その辺りの微妙なグラデーションのはざまを生きていた。
ある種のユーフォリア状態だった当時、必然的に大学では浮いてしまって、孤独に本を読み続ける日々だった。世界史が受験科目であったこともあり、熟読していた世界史実況中継シリーズの文化史を導きの糸とした。
大学生協で岩波文庫を片っ端から買いあさって、意味も分からず乱読する中で、コツンと手ごたえを感じたのが西洋哲学であった。
ソクラテスのすっとぼけた禅問答のようなやり取りが苦手で、哲学には良い印象を抱いていなかったが、「われ思う、ゆえにわれ有り」に始まる近現代の哲学が私にとっては魅惑的であった。自己の拠って立つ基盤を掘り下げていくそのスタイルが、虚無の観念に悩まされる私にマッチするような気がした。
近現代の哲学はニヒリズムに到達するわけで、私の予感は正当なものではあった。しかし、哲学研究を生業とするとなると、またそれとは違うスタイルが求められることとなり、それがまた私の悩みを深めることとなる。
その辺りの事情については次回詳しく話したい。
95年にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった。当時住んでいた金沢のアパートには、わが身の無実を訴えるチラシが連日入れられていた。金沢の京町に教団事務所があったのだ。94年の松本サリン事件の時にも、自己弁護のチラシが散々入れられていた。
ユーフォリア状態だったキャンパスにおいて哲学に没頭する私は、周囲に違和感を与え、からかわれてオウム真理教になぞらえられていたものだ。また、原理研(統一教会)の活動もそれなりに盛んで、その活動にも重ねられていた。
当時哲学を勉強するということは、周囲からの孤立を余儀なくされるものであった。現在の哲学ブームというか、役に立つ哲学を求められる傾向は当時は全く想像できないものであった。VUCAの時代ともいわれるが、不透明性が高まる現代、ゆるぎない前提を求められるのだろうが、当時の私はまさに虚無の淵に立つ毎日で、毎日が不安で仕方がなかった。
不安に駆り立てられて、哲学と語学の勉強に励む日々であった。
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