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NOZUの独り言#9 塾の仕事で救えない人
自分は塾講師であって、学校の先生ではない。
民間企業ゆえ生徒保護者は「お客様」であり、サービスに満足がいかなければ切られる存在である。
塾講師になる人には大きく2種類いると思う。科目が好きでそれを共有したい人と、嫌いなのになまじ得意なために苦手意識を克服させてあげたい人だ。自分は前者に当たる。
同じく生徒にも2種類おり、より高みを目指す生徒と赤点を回避したい生徒だ。こちらは後者の方が多いだろう。
自分は上位コースを担当しているので、前者の生徒の割合の方が高い。しかし中には授業についていけず脱落していく生徒も多少だが存在するのが現実だ。詳細は機密だが、模試の成績が一定ラインを下回ると下位コースを提案することになっている。
「今でしょ」でお馴染み東進の林修氏が「塾は生活指導等の躾もしないのだから、成績は担保すべし」という旨のことを語っていたと記憶している。(齟齬があれば申し訳ありません。)
脱落していく生徒を見るたび、この言葉が頭をよぎる。塾講師は特殊な職業ではあるものの、この点においては結果を出せないビジネスマンと何も違いはない。さながらホワイトボードに書かれた棒グラフが自分だけ短い気分になる。
そもそも塾の本懐が「成績を伸ばす」である以上、「成績が振るわないから脱落」というのは矛盾している。
それでもビジネスである以上、実績を念頭に置いて非常な決断を下さなければならない瞬間というのは訪れる。
自分は生徒に「こんなところに合格できるんだ」という期待や喜びを与えたくてこの仕事を始めたのではなかったか。数字を追いかけ、生徒をいち実績と見た瞬間、講師業というのは瓦解する。
こんなアンビバレント(両義的)なことを考えているうち、自分は生徒に二つの側面を見出すようになった。
授業やその前後で相対する人間としての生徒と、答案や成績表に現れる数字としての生徒である。
生徒は人であり数字なのだ。この点は学校と大きく違うだろう。
人としての生徒は大切にしたいが、数字としての生徒はその値が小さければ無情にも切り捨てることができる。
中庸が見つかる日は来るのだろうか。