見出し画像

『みずから回る輪【第1部】―「DPPT workshop vol.2 Performance by 山岡さ希子《往復する拳 Fists going back and forth》」に寄せて』

窓がL字に伸びている。
その “L” の角には、細く長い、音叉の先のような脚を2対持ったスツールが3組、座面同士を合わせた形で寄せられていて木立のようだ。傍らの、カートに積まれたスタッキングチェアの脚部が銀光りする “Z” の川みたいで、左の窓辺にも、背後の壁沿いにも、「PARA神保町 2F」の備品が置かれている。
「“倉庫っぽい” 雰囲気を残したい」という、山岡さ希子さんの意向により、今回は備品を片付けたり、あるいは可動壁で隠したりはしなかった。しかし、ではそのままか、と問われたらそうではない。物の配置、窓の開き具合なんかもインスタレーションとしての効果が検討されており、左手前と右奥の窓辺には、テーブルが1台ずつ置かれた。

左手前のテーブル、その白い天板には16個の石が既に広げられており、5cmにも満たない小石から、平べったいもの、長細いもの、厚みのあるものなんかが混じり合う。その中から、直径20cmくらいの最大サイズの石を両手で持ち上げた山岡さんは、それを左手で、肩に担ぐようにして右向こうの、窓辺のテーブルへと運ぶ。5歩くらいでたどり着き、石を天板の中央に置くと、ゴツッと鈍い音がする。

そしてまた5、6歩、手ぶらで引き返すと次の石を持ち (今度は小さいから、親指と人差し指で摘まんでいる)、向こうのテーブルへと運び移す。
16個の石全てを右奥へ移し終えると、1 個ずつ左手前のテーブルに戻していって、これを8時間繰り返すのが、今回の《往復する拳 Fists going back and forth》だった。
Durational Performance (以下、DPと表記) とは、長時間にわたってある動作を反復・持続するパフォーマー、そしてそのパフォーマンスを目撃する鑑賞者とが、時に身体的・精神的負荷を感じつつも、ある時間を共有するというものだ。だからこそ、例えば「サイコロを8時間振る」「輪ゴムを4時間飛ばす」そして「石を8時間運ぶ」と一言にまとめることもできるのだが、それはDPの魅力を全く取りこぼしていて、小説の面白さが粗筋では伝えられないこと、実際読んでいる時間の中にしか生まれないことと似ている。

16個の石を、左手前から右奥へと移し変えた山岡さんは、天板上に散りばめた石の間隔を調整してしばし眺める。そして、今度は左手前のテーブルへとまた1つずつ戻し始めて、それも終わるとPARAの黒い壁にチョークで「 | 」を引く (正の字の要領で、往復が1セット終わる度に「 || 」「 ||| 」「 |||| 」と引いていき、5本目の横棒が、その縦棒4本を目刺しみたいに貫いた)。
こうした往路 (すなわち、①左手前のテーブルより石を運び始めてから、②右奥のテーブルへ16個全てを移し終え、③また左手前へと戻し始めるまで) と、復路 (①右奥より戻し始めてから、②左手前へ全て移し終え、③また右奥へと運び始めるまで) を、【往1】【復1】【往2】【復2】…と表記していけば、額縁のように石を並べる動きは【往4】から生まれた。

【復3】において、左手前のテーブルに積まれた石の “山” は、たしか12個目が積まれようとしたところで倒壊した。転げ落ちたままだった石を床から拾い上げた山岡さんは、そのまま衒いのない足取りで右奥のテーブルへ向かい、窓に最も近い角、その縁に石を置く。以降、右上→右下、左上→左下…と、規則的に配された石はテーブルを彩る額縁となって、落ちた16個目の石を、山岡さんは載せ直す。こうした “額縁” の動きは【往12】、【往21】→【復21】→【往22】…とこの先何度も現れた。

そして “額縁” に限らず、落ちるか落ちないかのギリギリを楽しむようにテーブルの端にはしばしば石が置かれたけれど、当然ながら時に落下した。
それは、この3月に石田高大さんが発表した《6つのサイコロ》を思い出させて (https://ipamia.net/dppt-ws-vol-1-writing-performance-hiraoka/)、彼は同じくPARAのテーブルを使って計8時間サイコロを振ったが、サイコロは、テーブルに置かれたパネルから、天板を越えて床へと転がった。6つのサイコロ全てがパネルから落ちると、石田さんは立ち上がってパネルをどかす。続いて重いテーブルを横倒しにするのだが、一度だけ、天板に残っていた4つのサイコロが流砂のごとく滑り落ちた。

拳ひとつ分空いた窓、その前に立った山岡さんがこちらへと傾けたテーブルからも、石が次々転がり落ちていく (【往12】。時刻で言えば12時20分頃のことで、だいたい一往復が12〜13分の計算になる)。ゴッ、ゴッ…というくぐもった音や、甲高い、何かが割れそうな音が続けざまに起こって、そこに微震も加わる (石同士がぶつかって土煙が舞う)。毛足の短いカーペットでは音を吸いきれない、1階にはおそらく別のオフィスが入っている。傾けたテーブル、その脚の下に挟まりこんだ小石を摘まみ取った山岡さんは、カンッ、カンカンカンッ…と、その石で脚を叩いて奏でた。
落とす動き自体は【往5】で既に現れていたが、その時は、両手で押した大きな石で他の石を追い落としており、それは【復11】【往34】でも繰り返された。そして【往34】では、その後にテーブルも傾けられ、雪崩のように石が落ちる。その内ひとつを、石田さんが投げ返す。

床に落ちた石は鈍い音を立てたが、川に放りこまれた石は、その流れの響きに呑まれてほとんど水音を立てない。

「いるの知ってるよ~!」
「ごめんね~!」
「あ~そ~ぼ~!」

と言いながら山岡さんが川に向かって石を投げていたのは4月21日、玉川上水取水口付近でのことだが (https://ipamia.net/dppt-tamagawa-writing-performance-by-hiraoka/「第一部」) 、《Call for Kappa》と題されたこのパフォーマンスにおいて、石を投げることは、あたかも窓ガラスへ小石を投げ当てるように、ある種の呼びかけであった。

当然、ビルのワンフロアであるPARAで石を投げることはない。しかし、石を持った左手 (山岡さんは左利きのようだが、【往5】→【復5】→【往6】のように、右手で運ぶこともあった) を道中振りかぶることはしばしばあったし、【往23】では、あたかも飛行機のおもちゃを飛ばすように、振りかぶって伸ばした腕、親指と人差し指の間に挟み持った石を束の間滞空させた。
石を運ぶ山岡さんからは、“真剣な楽しさ” とも言えるような雰囲気が漂っているけれど、《ある時ある場所にいる Be in a space in a time》(2015, https://www.youtube.com/watch?v=wVl-ebMGL1I ) ではもう少し切羽詰まった感じで、引き結んだ唇、まばたきの少ない目線の先を通行人が行き交っている。地下鉄新宿三丁目駅、どうやら伊勢丹正面改札のあたりらしく、左手と右手にひとつずつ拳大の石を握りしめた山岡さんは、3時間、柱を背に直立し続けた。
巨人ゴリアテに挑んだダヴィデ、あるいはイスラエル軍に対するパレスチナ市民のインティファーダを例に挙げるまでもなく、投石は、“力弱い” 者が “強大” な存在と対峙するための術であり続けている。3時間にわたって握りしめられた石がもし投げられたとすれば、体温がすっかり移ったそれらは、もはや拳そのものと言えるかもしれない。
《往復する拳》と題されているように、石は拳に擬されている。しかし、それらは時に “臓器” でもあって、(石を振りかぶったのと同じく)【往23】において、上体を反らした山岡さんは、手に持った石を心臓のあたりに当てた (他にも、【往24】【往26】)。心音を聴くようにうんうんと頷き、石を外しても、その頷きは残響のようにしばし続いた。

禅僧は、文字通り「温めた石」である温石 (おんじゃく) を懐に入れることで一日一食に耐えていた (それが転じて、空腹を和らげる程度の軽い食事を懐石料理と呼ぶようになった) らしいが、胃に当てた石の温かさがだんだんと胃に伝わっていくように、山岡さんの手によって、石はひとつずつ向こうのテーブルへと移される。額縁状に並べた【往20】の後、石の配置は【復20】→【往21】→【復21】→【往22】あたりまでそのまま写し取られていったし、【往10】では、左手前のテーブルで4×4に整列した石たちが、左上から一筆書きの要領で順々に移されていった。
ひとつひとつ移され “コピー” されていく様は細胞分裂や遺伝を連想させるし、時に石の配置はテーブル間で鏡写し(例えば【復10】)あるいは点対称(【往11】【往28】など)に “変異” した。同様に、【往23】において、右奥の窓辺へひとつだけ置かれた石は、コピーミスにより欠落した遺伝情報と喩えられるかもしれない。その石も、【復23】→【往24】→【復24】…と右奥から左手前の窓枠へ行ったり来たりしていて、その度に山岡さんは石に向かって手を合わせる。石田さんが一緒に拝み始めたのは【復28】からで、結局【往30】で、何の前触れもなく天板へと戻っていった。

石を持って行っては引き返し…という反復をずっと眺めていると、ふと、今が往路なのか、それとも復路なのか分からない瞬間が訪れて、その感覚は、《Stand/Laydown》(1999/2023) を見ている時に近しい (https://note.com/nozomu_h/n/nbe260b39e872)。
《Stand/Laydown》とは、山岡さんと相手パフォーマーとが交互に立ったり寝そべったりを繰り返すというもので、片方が立っている時、もう片方は寝そべらなければならない。…と書くと、攻守がオン/オフの要領でガラリと入れ替わるイメージを喚起するかもしれないが、むしろ、相手の様子を観察しながら体勢を徐々に入れ替えていく。その時、お互いが中腰になる瞬間があるのだが、長時間見ていると、どっちが立つ番でどっちが横たわる番か分からなくなる。中腰の瞬間は、あたかも《Stand/Laydown》におけるスラッシュのような “裂け目” と化し、それは時間の裂け目でもあった。
私が見たのは2023年3月の回と、同年8月の回で、後者は恵比寿の「工房 親(こうぼう ちか)」において、北山聖子さんと5時間にわたって行われた。上述のような展開は、しかし “中盤” までの間で、最後の1時間半くらいはお互いに剛速球を投げ合うみたいなやり取りをしていた。というのも、相手が寝そべった時には自分は立っていなければならないからで、例えば山岡さんが勢いよく倒れた瞬間、それは鋭い “命令” となって北山さんを立たせた。
『ノートル=ダム・ド・パリ』(辻昶、松下和則・訳, 岩波文庫) を読み始めると、いきなり祝祭日の聖史劇のドタバタがたっぷりと100ページくらい描かれ、カジモドはその後の “変顔大会” でやっと現れる。その後も、ノートル=ダム大聖堂から望むパリの各地区が事細かに、それこそレンガのひと欠けまでもらさぬ勢いで活写され、そこから (当時の) 現代建築批判まで展開されていくが、そうした “寄り道” こそが面白くて、登場人物たちが、各人に用意された運命へにわかに走り始める終盤はむしろ寂しい。
DPにも似たようなところがあって、終盤になると、それまで広がっていた試みがだんだんと収斂されていく。【往36】はたしか16時半頃だったが、そこからは「積み上げる」「テーブルの端に置く」ということが淡々と追究されていって、17時58分、山岡さんは手を止めた。44本目の「|」が、PARAの黒い壁に白々と引かれたところだった。(第2部に続く)

いいなと思ったら応援しよう!